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イタリア・オペラの楽しみ

なぜ「ロッシーニ・ルネサンス」は進むのに 「ヴェルディ・ルネサンス」は進まないのか

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香原斗志

 ロッシーニ・ルネサンスという言葉を聞いたことがあるだろうか。今日では世界中の劇場でセリア(まじめな劇)からブッファ(喜劇)まで、数々のオペラ作品が頻繁に上演されているロッシーニだけれど、実は、長く不遇の時代が続いたのちに「再生」されているのである。

     同時代に「ナポレオンは死んだが、また別の男が出現して、モスクワでもナポリでも、ロンドンでもウィーンでも、パリでもカルカッタでも、連日話題になっている」(スタンダール「ロッシーニ伝」、山辺雅彦訳)とまで讃えられたロッシーニだが、ヨーロッパ中を興奮に包んだそのオペラは、ブッファの《セビリャの理髪師》を除けば、100年以上にわたって劇場のレパートリーからほぼ消えていた。その《セビリャの理髪師》さえも、上演するたびに楽譜のあちこちがカットされたり改変されたりして、ロッシーニが書いたものからかなり遠ざかっていたのだ。

     そんな楽譜のありように対し、最初に疑問を抱いたのが、ロッシーニの生地であるアドリア海に面したペーザロで毎夏開催されるロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)の芸術監督を昨年まで務めたアルベルト・ゼッダだった。彼はロッシーニの自筆楽譜をていねいに検証し、1969年に《セビリャの理髪師》、71年には《ラ・チェネレントラ》の批評校訂版を完成させ、それを機に、ロッシーニのすべてのオペラについて批評校訂版が作られることになった。こうして、まさに「ルネサンス(再生)」の基盤ができ、それはすぐれた三位一体の仕組みによって深掘りされていった。ロッシーニ財団における研究を通して批評校訂版の編纂(へんさん)が進み、それをROFの上演で実践し、忘れられたベルカント、すなわち過去の技巧的な歌唱様式を身につけた歌手をペーザロのロッシーニ・アカデミーで養成する、という仕組みだ。その結果、演奏家も聴衆もロッシーニ作品の素晴らしさに気づき、世界に広まっていったというわけである。

    踏襲される「演奏慣習」

     では、ヴェルディの作品はどうだろう。前回取り上げた《ジョヴァンナ・ダルコ》をはじめ、初期の作品のなかには上演機会が極めて少なかったものがあるけれど、多くは初演以来、間断なく上演されている。だから「ルネサンス」、すなわち「再生」する必要がないと思われがちだが、そんなことはない。現実には、ヴェルディのオペラにこそ「ルネサンス」の到来が待たれるのである。

     この2月、東京二期会が「天才」の呼び声が高い20代の若き指揮者、アンドレア・バッティストーニを招聘(しょうへい)してヴェルディの《イル・トロヴァトーレ》を上演した。この作品に独特の夜の色彩感を絶妙に漂わせ、きわめて高い統率力のもと、小気味よいテンポで密度の濃い音を響かせ、その指揮ぶりは「天才」の名にふさわしかったけれど、残念に感じられた点もあった。彼が旧来の演奏慣習をそのまま踏襲していたことだ。

     演奏慣習とは、上演が繰り返されるなかで演奏家などによって勝手に加えられたカットや改変で、もちろん生前のヴェルディが指示したものではない。《イル・トロヴァトーレ》で言えば、第1幕のレオノーラのカヴァティーナで反復部をカットし、第2幕のルーナ伯爵のアリアで楽譜に書かれたのとは異なるカデンツァを歌い、第3幕のマンリーコのアリアでは、後半部のカヴァティーナ「見よ、恐ろしい炎を」で中間部と反復部をカットしたうえ、楽譜に書かれていないハイCを高らかに響かせる……という具合。しかも、そのハイCを歌うリスクを避けるために1音下に移調し、ヴェルディによる調性の設計が壊れてしまっていた。ほかにも、歌手たちは声を誇示するために随所でテンポ・ルバートし、アリアの歌い終わりは声を高く張り上げる。実は、ヴェルディがアリアを高音で締めくくるように書いた例はほとんどないのだ。ヴェルディが演奏者による改変を容認していたのならまだしも、自分が書いた通りに演奏するようにと、しつこいくらいに述べていた。自身が書いた原点が損なわれることを、だれよりも警戒していたのがヴェルディなのだ。若いバッティストーニこそ、こうした因習を断ち切ってほしかった。

     もうひとつ残念なことがあった。私は昨年夏、イタリアでバッティストーニにインタビューした際、「《イル・トロヴァトーレ》では、楽譜は批評校訂版を使うんですよね」と質問した。ヴェルディのオペラについてもシカゴ大学で批評校訂版の編纂が進み、1983年からヴェルディ全集として刊行が始まっているのだ。しかし、若き天才指揮者の回答は「批評校訂版でもたいして変わらないし、旧版で十分」というものだった。だが、たとえば歌唱に対する指示を見ても、リコルディ社の旧版と批評校訂版とでは、おおいに異なる。フレーズには頻繁に強弱の変化が要求され、「ドルチェ(甘く)」とか「モレンド(死ぬように)」とか「PPP」といった指示があちこちに施されている。その指示通りに歌うと、かつて「オペラの黄金時代」と呼ばれた全盛期半ばの録音に残された、暗めの声を強く押し出し、アクセントを強調した歌とは、まったく異なる歌が聴こえてくる。

     上演が途絶えた期間が少ないだけに、19世紀の終わりから席巻したヴェリズモ風の歌唱法、すなわち大声を張り上げる歌い方が定着し、今日まで残ってしまっているヴェルディだが、実は、初期から中期のものは批評校訂版の指示通りに歌うと、ロッシーニやドニゼッティのオペラと同様の歌唱様式を要求していることがわかる。しかし、バッティストーニはそのことは示してくれなかった。

    上演が途絶えなかったばかりに

     たしかにヴェルディは、ロッシーニのような歌唱重視のオペラから、ドラマを重視したオペラへと転換を図ったし、それにともなって声の用法も徐々に変えていったけれど、それはあくまでも漸次的であったし、後期の作品であっても声をきわめて柔軟に用いることを求めている。「ヴェルディの声」という言い方があるけれど、それは後世、ヴェリズモの歌い方がヴェルディにも適用されるなかで定着したイメージにすぎない。そもそもヴェルディの、特に初期や中期の作品を歌ったのは、ベルカントのテクニックを習得し、ロッシーニやドニゼッティを歌っていた歌手たちなのだ。それを考えれば、激しく声を張り上げる絶叫調のヴェルディが、原点から遠いことがわかるだろう。

     このところ、ロッシーニやドニゼッティ、ベッリーニなどの作品を得意としていた歌手たちがヴェルディを歌うことが多くなった。フランチェスコ・メーリやグレゴリー・クンデ(ともにテノール)、ダニエラ・バルチェッローナ(メッゾソプラノ)、アンナ・ネトレプコ……。それによってヴェルディの歌唱のありようも変わりつつあるけれど、まだまだ絶叫も多く聴かれる。そのうえ、ヴェルディの原点から遠ざかった演奏慣習もなかなか改まらない。念のために言えば、私はバッティストーニが悪いと言っているのではない。彼を期待するだけに、因習も断ち切ってくれないかと願うのだが、若い彼でさえも慣習を踏襲してしまうことにこそ、その根深さが象徴的に表れているとも言えるだろう。

     ロッシーニのオペラは断絶があったために因習が最小限ですみ、「再生」への道をたどるのが容易だった。一方、ヴェルディのオペラは上演が途絶えなかったばかりに、多くの手垢(てあか)がつき、それを払うのが容易ではない。「ヴェルディ・ルネサンス」の道のりは遠いけれども、しかし、20年も経てば、「昔はヴェルディの楽譜をあんなに切り刻んで平気だったんだよ」と、驚きとともに回想されるようになるのではないだろうか。

    筆者プロフィル

     香原斗志(かはら・とし) オペラ評論家、音楽ジャーナリスト。イタリア・オペラを中心に音楽専門誌や公演プログラム、研究紀要などに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に「イタリアを旅する会話」(三修社)、共著に「イタリア文化事典」(丸善出版)。

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