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「新芸」とその時代

(41)ソ連の仕事Ⅳ 幻の指揮者ムラヴィンスキー①

初来日の東京公演初日に東京文化会館でレニングラード・フィルを指揮するムラヴィンスキー=1973年5月26日撮影

三度目の正直

 1973年5月26日、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(略称・レン・フィル、現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)の演奏会の開演を前に、東京文化会館の客席は異様な熱気に包まれていた。58年と70年のレン・フィル来日時に同行が予定されていながら実現しなかったソビエトを代表する指揮者、エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903~88年)が初来日を果たし、この日が東京公演の初日だった。聴衆は「幻の指揮者」の登場を今か今かと待ち構えていた。定刻の午後7時、楽団員が着席し、長身痩躯(そうく)で哲学者風の風貌の指揮者が舞台に現れた瞬間、地鳴りのようなどよめきが大ホールを揺るがせた。

    演奏曲目はベートーヴェンの交響曲第4番とショスタコーヴィチの交響曲第5番。同夜の模様を報じた毎日新聞の記事によれば、「オーケストラは一つの生きた楽器となって、驚くほどに、みずみずしく、ゆたかな音楽をつくりだす」、ショスタコーヴィチでは「永い伝統を、この一曲に凝縮したかのように、一段と精彩を放った。人々の心を奥底から、なぐさめ、勇気づける音楽であった」という(73年5月27日付)。

     演奏終了後、興奮冷めやらぬ客席から一人の青年がステージに駆け上がるというハプニングがあった。握手を求めた若者に、ムラヴィンスキーは自分の指揮棒を渡し、客席は大きな拍手と歓声に包まれた。通訳を務めた河島みどりによるとマエストロは「火のように燃える目を見たら思わず渡してしまった」と語っていたという。

     レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の歴史は1882年までさかのぼる。当時は宮廷付属の帝室交響楽団で、公開の演奏会を行うようになったのは20世紀に入ってからだ。前身は1700年代からあったペテルブルクの宮廷オーケストラで、長い伝統と歴史を誇るロシアを代表する楽団である。

     ムラヴィンスキーはレニングラード(現サンクトペテルブルク)に生まれ、レニングラード音楽院で作曲、指揮を学ぶ。38年に全ソ連指揮者コンクールで第1位となり、35歳の若さでレン・フィルの首席指揮者に任命され、以後、88年に亡くなるまでの半世紀にわたりその地位にあり、レン・フィルを世界有数のオーケストラへと導いた。

    横浜に到着したムラヴィンスキー夫妻=1973年5月18日撮影

     ムラヴィンスキーは飛行機嫌いで知られ、初来日に際してはレニングラードから164時間の鉄路での旅を経て、ナホトカでオーケストラと合流。船で横浜港に到着したのは5月18日だった。モスグリーンのコートに身を包んだ長身のマエストロは、オーケストラの一行の最後に悠然と上陸。夫人でレン・フィルのフルート奏者であったアレクサンドラ・ヴァヴィーリナも同行していた。写真で見るムラヴィンスキーは気難しそうな印象だが、通訳の河島は「握手のために差し出された手がとても柔らかかった」ことを覚えているという。

    リヒテルの「代役」

    実はこの初来日は、急病で来日不能となったピアニストのスヴャトスラフ・リヒテルの代わりに、ソ連政府が急きょ決定したものだった。72年から日ソ平和条約の交渉が動き出し、73年10月には田中角栄首相が訪ソし17年ぶりに日ソ首脳会談が行われ、両国にとっては重要かつデリケートな時期であり、あるいはソ連側の政治的配慮があったのかもしれない。

    リヒテル来日中止が公になったのは同年1月で、招請元の新芸術家協会とともに東京公演を主催した毎日新聞でムラヴィンスキーの来日が発表されたのが2月21日、チケットの発売が同23日という慌ただしさだった。

    来日公演は5月21日の京都からスタートし、金沢、大阪、栃木(足利市)、東京、札幌、長野、盛岡、仙台、和歌山を経て、6月8日の名古屋まで計15回の過密スケジュールで、このうち8回をムラヴィンスキーが指揮。7回をアレクサンドル・ドミトリエフが指揮している。

    ムラヴィンスキーが指揮した曲目は、ショスタコーヴィチの交響曲第5、6番、チャイコフスキーの交響曲第5番、ベートーヴェンの交響曲第4番、ブラームスの交響曲第4番、プロコフィエフのバレエ組曲「ロメオとジュリエット」第2番、グリンカのオペラ「ルスランとリュドミラ」序曲。特にショスタコーヴィチの演奏は、彼の作品の初演を多く手がけ、交流も深かったムラヴィンスキーならではの名演として音楽ファンに記憶されたようだ。

    新芸の西岡も、2001年の筆者の取材で、ムラヴィンスキーへの思い入れを語っている。

    「私が呼んだ音楽家の中でもムラヴィンスキーとレン・フィルの組み合わせは飛び抜けて素晴らしかった。彼が位置につくだけで楽員の背筋が伸びるんだよ。小さな音までよく聞こえ、フォルテの時も指揮棒を振り回さない。チャイコフスキーの演奏は絶品だったし、プロコフィエフも今まで聞いたことのないような演奏だった。偉い指揮者だと思う。彼は飛行機が嫌いで、『日本へは潜水艦に乗って行きたい』と冗談を言っていた。気難しそうに見えるけれど、謙虚できちんとした人。生活も質素で、椅子に座って一日中本を読んでいるような感じだった。数年前にロシアへムラヴィンスキーの墓参りに行って自宅を訪ねたら、奥さんが、ムラヴィンスキー愛用の籐椅子に座らせてくれ、長い時間おしゃべりをした」

    73年に新芸に入社した玉村穆(きよし)=現日本アーティストプロデューサー=も、そのカリスマ性を証言する。「彼が指揮する時には、楽員がぴりっとしていましたね。みんな猛練習していました。当時は帝国ホテルを使っていましたが、あちこちの部屋からヴァイオリンの音が聞こえてきたものです。公演では、ムラヴィンスキーがステージに登場した瞬間に、客席から『ウォー』と歓声が上がったのも覚えています。確かにすごい指揮者でした」

    右から河島、ムラヴィンスキー、アレクサンドラ夫人、西岡。77年8月13日の日付がプリントされている。撮影場所は不明=西岡昌紀氏提供

    一転、日本びいきに

    初来日中に70歳の誕生日を迎えたマエストロは、当初「これが最後の日本公演」と語っていたが、日本のファンの熱狂ぶりや、河島を含めた新芸の、万全を期した受け入れ体制が老巨匠の心をつかんだのだろう。帰国の際には「ここに来るときは、さいはての地に行くと思っていたが、今ではわれわれがさいはての僻地に住んでいることがわかった」と言いのこしたという(河島みどり著「ムラヴィンスキーと私」)。その後75、77、79年にもレン・フィルとともに新芸の招きで来日している。

    実は81年5月にも来日が予定されていたが、ムラヴィンスキーの急病を理由に急きょ中止となり、代わりにモスクワ・フィルが来る「事件」があった。チケットの払い戻しをしたり、地方の演奏会の主催者から出演料の値引きを求められたりと対応に追われ、結局新芸は2億2000万円の損失を出したという。それ以前から為替差損、招請アーティストの日程変更や急死などの不運が重なり、経営状態が悪化していた新芸は同年夏に倒産。ムラヴィンスキーとレン・フィルのキャンセルで、まさに「息の根が止められた」ように見える。「ソ連もの」を手がけて急成長した新芸が、ソ連ものによって幕引きを迎えたのは何という運命の皮肉だろうか。ソ連という国を相手にしたビジネスは、それだけリスクも高かったともいえそうだ。【野宮珠里】

    (文中敬称略、原則として文中の引用文は原表記のまま)

    ※隔週土曜日掲載。次回は7月7日の予定です。

    CDの説明

     73年ムラヴィンスキー初来日の東京公演(5月26日)のライブ録音。上はベートーヴェンの交響曲第4番のほか、リャードフ「バーバ・ヤーガ」、グラズノフ「ライモンダ」第3幕への間奏曲を収録。下はショスタコーヴィチの交響曲第5番が収められている(レーベル:Altus、音源提供:NHK/NHKサービスセンター)

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