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クトゥーゾフの窓から

日露の架け橋を(1)半世紀前の声楽家の思いを実現 日本題材のオペラがロシアで初演

 日本とロシアを題材にしたオペラを作り、ロシアの劇場で上演したい--。半世紀も前に日本の声楽家が抱いた思いを踏まえ、遺族や日本人歌手が協力し、10月末に公演が実現した。当日には予期せぬ客も現れて、関係者は作品が取り持つ縁に感慨深げだった。

 モスクワの劇場ドーム・ムージキで10月30日、オペラ作品「光太夫」が上演された。江戸時代後期の18世紀後半に起きた史実に基づく作品である。運搬船船頭の大黒屋光太夫(だいこくや・こうだゆう)とその一行が漂流して帝政ロシアにたどり着き、足かけ10年の苦難の末に帰国するまでを描いている。約100分の作品が幕を閉じると、場内は歓声に包まれた。

オペラ作品「光太夫」でロシアに漂着した船頭、大黒屋光太夫を演じる男性歌手(後列中央)。光太夫は船員と共に苦難の日々を過ごした=モスクワで2018年10月30日、大前仁撮影

日ソ交流への思い

 拍手の波が押し寄せる中、演目の版権を持つ青木義英さん(70)はホッとした表情を浮かべた。きっかけは、声楽家だった母の英子さん(故人)が1960年代中ごろにソ連を訪れたことだった。文化人との交流を深めると、英子さんは日ソ両国を題材としてロシア語オペラを作りたいとの思いを強めた。

 やがて、2世紀前に起きた光太夫の史実を知り、自分で脚本を書き上げ、ロシア人の母親を持つ歌手の山下健二さんにロシア語訳を頼んだ。作曲家探しは難航したが、ソ連のアゼルバイジャン共和国の音楽家、ファルハング・グセイノフさん(故人)に依頼した。紆余(うよ)曲折の末に作品が完成したのは93年のこと。着想から四半世紀以上が過ぎていた。

 この年の9月、オペラ作品「光太夫」は日本の民放局の記念事業として、東京や大阪などで初めて上演された。カーテンコールの際、満足げな英子さんの表情が印象的だったという。ただし、この公演では歌手や合唱団がロシア語で熱唱しながらも、演技の部分は除かれてしまい、正規のオペラ作品としては上演できなかった。

オペラ作品「光太夫」では史実に基づき、女帝エカテリーナ2世役の歌手(手前)が光太夫に謁見する。平岡貴子さん(右端)も侍女役として出演した=モスクワで2018年10月30日、大前仁撮影

遠いロシア公演

 しかし、その後は「光太夫」をロシアで上演する話は一向に進まなかった。もしかしたら、作曲したグセイノフさんが、独立後のアゼルバイジャンから隣国トルコへ亡命したゴタゴタが影響したのかもしれなかった。さらに日本での再演すらも実現せずに月日が過ぎていった。

 2008年に義英さんが勤務先の航空会社を辞め、和歌山大で観光学を教え始めた。そして10年には英子さんが91歳で、翌11年にグセイノフさんが61歳でそれぞれ生涯を終えた。関係者が相次いで他界し、「光太夫」のロシア公演はますます遠のいたかのようだった。

 どうにかして「光太夫」をロシアで上演したい--。16年の初夏、英子さんの七回忌を機にして、義英さんは思いを新たにした。それは長い間存在を忘れていた母の遺書に気がつき、開けてみると、次のように書かれていたからだ。「あなたの代で『光太夫』のロシア公演を実現してもらいたい」

オペラ作品「光太夫」の脚本を書いた青木英子さんの息子・義英さん(右)と、作曲したファルハング・グセイノフさんの娘・トムリスさん。ロシアで初演の日に初めて出会った=モスクワで2018年10月30日、大前仁撮影

 それから1年後、義英さんはある日本人と知り合い、これがモスクワ公演に向けた転機となっていく。

 モスクワにあるアマデウス劇場でソリストを務める平岡貴子さんは、面白い経歴を持つ歌手だ。桐朋学園の短大とディプロマコースで声楽を学び、修了後は楽器会社の音楽コースで教えていた。それでもロシア語で歌う夢を諦めず、ロシアに通い声楽を学び続けた。そして07年からアマデウス劇場の舞台に立つ。日本とロシアを行き来するうちに、知り合いも増えて自分の財産としていた。

 「光太夫」がお蔵入りになっている事実を知らされると、平岡さんは所属する劇場に上演の話を持ち込んだ。劇場の指揮者も日露交流の史実に関心を抱いたことから、とんとん拍子にモスクワ公演の話が進んだ。何よりも今年5月から始まった「日露交流年」で、なんとか日の目を見させたいと平岡さんが応募した「光太夫」が対象事業に選ばれたことが大きかった。

 10月30日の舞台では、光太夫を演じた男性歌手が力強い歌声を披露し、異国の地で次々と仲間を失う男の苦悩を表した。演目終盤では女帝エカテリーナ2世との謁見が実現し、光太夫の一行は帰国の許可を得られたのだ。この場面では平岡さんも侍女として登場し、物語にアクセントをつけた。

オペラ作品「光太夫」のカーテンコールで平岡貴子さんは喜びをあらわにしていた=モスクワで2018年10月30日、大前仁撮影

作品が取り持つ縁

 上演後の反響は上々だった。「普通の作品と状況設定が違うが、日本の英雄を知ることができたし、とても面白かった」。女性客のスベトラナさん(34)は満足げだ。「音楽も筋書きも素晴らしかった。きっとロシアで評判を得るでしょう」。別の女性客のラリサさん(66)もこう語る。

 公演では思わぬ客が現れた。作曲家グセイノフさんの次女、トムリスさん(37)がアゼルバイジャンから駆け付けたのだ。義英さんとは面識がなかったが、8月にフェイスブックで公演のことを知ると、「作曲家の娘として行かなければ」といても立ってもいられなくなった。自費で航空券と公演の切符を購入し、翌日にとんぼ返りする日程で足を運んだ。

 トムリスさんは父が作曲した「光太夫」の音楽を聴いたことがなかったという。それでも舞台で奏でられたメロディーを耳にすると、すぐに分かった。「今はこのような曲作りをする音楽家はいない。この独特のスタイルは父の音楽だ」。自然と涙がこぼれ落ちてきた。

 「まさに運命的な出会いだ」。これまでトムリスさんを知らなかった義英さんも喜びと驚きを隠さない。母の英子さんは日本とソ連の人たちをつなげたいとの思いから、オペラ作りに着手した。その願いがかない、残された作品を通じ、子どもたちの世代が結びついている。半世紀も前にまかれた種は、冬の到来を前にしたモスクワで花を咲かせていた。

大前仁

モスクワ支局記者 1969年生まれ。1996年から6年半、日経アメリカ社でワシントン支局に勤務。毎日新聞社では2008年から13年まで1回目のモスクワ支局に勤務。

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