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遠藤靖典

 クラシックやポップスのコンサートにせよ、歌舞伎にせよミュージカルにせよ、人間が舞台に立って興行する以上、催し物にキャンセルはつきものである。けがや病気はよくある理由だが、「入場者が少ないのが気に入らない」「放射線の影響が怖い」等、肉体的のみならず精神的な理由でもキャンセルは起きる。かつてカルロス・クライバーという指揮者がウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を振る予定だったところ、プローベ(練習)中に突如指揮台を降りて帰り、そのまま演奏会をキャンセルしたことがあった。演奏会の曲目は彼お得意のベートーヴェンの交響曲第4番であったが、帰った理由が「第2楽章冒頭のセカンドヴァイオリンの弾き方(アダージョで16分音符、32分休符、32分音符の組み合わせを6回)が気に入らん!」ということだったらしい。この指揮者は頻繁にキャンセルすることで有名で、晩年にカナリア諸島で催された演奏会は、場所が場所だけに、聴きに行った人々にとってはいつキャンセルされるかと気が気でなかったであろう。筆者はポップスや演劇の経験がさほどあるわけではないので、ここではクラシックの演奏会に限って述べることにする。

     詳細なデータが手元にあるわけではないが、一番キャンセルが多いのは声楽家のような気がする。なにせ体が楽器の彼ら彼女らのこと、喉の調子が少し悪くてもいつもの歌声でなくなるのは容易に想像がつく。我々は飲み会で声をからしても次の日少しつらい程度で済むが、声楽家にとってはそうはいかぬ。演奏会本番だけではなく、練習もあるはずで、喉の調子には細心の注意を払うであろう。それでも風邪を引いてしまうことはあるはずで、体が楽器であることは、最も人の心を打つ手段であると同時に、最もリスキーな演奏体系であると言える。

     そう考えると、次は管楽器奏者であろうか。管楽器は人の息を楽器に吹き込んで鳴らすため、声楽家ほどの影響はないかもしれぬが、人の体とのつながりは弦楽器やピアノに比してかなり強いように見受けられる。

     一方、指揮者は自分で楽器を演奏するわけではなく、多少体調が悪くても指揮台で腕を揺らしていればよいだけだから、キャンセルは少ないように感じる。ところが、キャンセルが目立つのは指揮者なのである。

     目立つ、と書いたのは、声楽家や管楽器奏者、弦楽器奏者と比較したキャンセル数を基にした客観的観点からの見方ではなく、意識に残った残っていない、という主観的観点からの見方だからである。実際、オーケストラのように構成メンバーの多い団体の場合、奏者個々のキャンセルをカウントすると相当数あるだろうが、オケ自体がキャンセル、ということはそうそうない。オペラにおいても、多くのオペラでは合唱団を必要とするので実際のキャンセル数はそれなりにあるであろうが、目立つのはタイトルロールと重要な役回りくらいで、指揮者のキャンセルに比べると目立たないように感じる。

     しかし、指揮者のキャンセルは目立つ。ともかく目立つ。何しろ、その演奏会の全てを仕切っている人間であり、彼、彼女の音楽性で全てが決まる。視覚的にも、それがたとえオペラであってもど真ん中に立ち、全ての意味で中心である。その指揮者のキャンセル、これは目立つ、のみならず、キツイ。

     そもそも、クラシックの演奏会に足を運ぶ多くの場合、その指揮者の音楽を聴きに行くのである。まあ、ソリストが立つ協奏曲では、人によってはそのソリスト目当てということもあろうが、多くの場合、協奏曲はプログラムの最後には配置されない。クラシックの演奏会で聴いてほしい曲は最後に配置されるのが通例なので、それはつまり、「この演奏会の主役はソリストではない」、言い換えれば「指揮者こそが主役」を意味するのである。その指揮者のキャンセルは、本当にキツイ。指揮者目当てに、ただでさえ少ない休みをやりくりし、海外まで行った揚げ句にキャンセル、という経験を持つ友人も周りに少なからずいる。その時の彼ら彼女らのやり場のない悲憤たるや……かく言う筆者も何回か指揮者のキャンセルに出くわした。その中でも記憶に残っているのは、日本での1986年9月25日のムラヴィンスキー指揮予定のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団(代役はマリス・ヤンソンス)、92年3月9日のクライバー指揮予定のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(代役はジュゼッペ・シノーポリ)、ベルリンでの89年2月のカラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(代役はカルロ・マリア・ジュリーニ)の三つである。そのためにこれらの指揮者のライブに接することができなかったのは痛恨の極み!

     実は今月も、大変楽しみにしていたバイエルン放送交響楽団の公演の指揮者であるマリス・ヤンソンスがキャンセルとなった。代役はメータとのことである。メータも大指揮者ではあるが、個人的にはヤンソンスの指揮を大変に楽しみにしていたので、非常に残念である。この公演について、一部演奏会のチケットの払い戻しには応じない、との主催者からの発表があった。確かに、主催者にとっても指揮者のキャンセルは予想外のことなので、いちいち払い戻していたらきりがない、という事情も分からぬではない。しかし、指揮者のキャンセルが目立つのは、演奏会の中心という理由の他、もう一つある。それは、名指揮者であればあるほど高齢で、それはすなわち、健康上の問題が顕在化しやすい、ということであり、結果としてキャンセルが生じやすい、ということを意味する。チケットを買う側が「キャンセルのリスクはある程度読めるはずだから半額でも戻せ」という気持ちになるのもやむを得まい。

     そう考えると、指揮者やソリストのキャンセルについて、主催者を対象とした保険があってもいいように感じる。指揮者の年齢やソリストの集客率によって保険料を変えるような商品があってもよいのではあるまいか? 寡聞にして知らぬが、すでにそのようなキャンセル対象保険は存在するのかもしれぬ。まあ、保険については素人同然なので、商品として成立するかどうか分からぬが。

     そういえば、ソリストのキャンセルでふと思い出した。かつてヴァイオリニストの諏訪内晶子がキャンセルした時、某掲示板にチケットの売りが大量に出た。ところが、代役がヒラリー・ハーンと告知された途端、あっという間に大量のチケットが市場から姿を消した。売れ残っていたチケットも含めてである。こういった場合は、保険金は支払われないのであろう、きっと。

    筆者プロフィル

     遠藤靖典(えんどう・やすのり) 大学教授。専門はデータ解析。教育・研究・学内業務のわずかな間隙(かんげき)を縫ってヴァイオリンを弾き、コンサートに足を運ぶ。

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