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「新芸」とその時代

(52)新芸と日本の音楽家Ⅲ 海野義雄

日本の国際派ヴァイオリニストの先駆けであった海野義雄

岩城宏之と新芸専属に

 「世界の海野」と呼ばれ、国際的に活躍したヴァイオリニスト、海野義雄(82)は、新芸術家協会(新芸)草創期から所属したアーティストの一人である。海野によれば、新芸の創立者である西岡芳和は当初、ヴァイオリニストの巌本真理やピアニストの井口基成などが所属していた音楽事務所「音楽芸術家協会」の仕事をしていたという。西岡が「新芸術家協会」の名前で事務所をスタートさせたのは1955年だが、60年までは「倒産」を経験するなど経営が不安定な時期で、他の事務所の仕事も「兼業」していたのかもしれない。

     「当時僕はNHK交響楽団のコンサートマスターになりたてで忙しい時期でしたが、時々音楽芸術家協会から、巌本さんのカルテットの仕事などを頼まれることがありました」

     まもなく新芸が日本人演奏家のマネジメントを始めることになり、「岩城宏之さんと一緒に、真っ先に専属になった」という。

    コンマス就任直前の頃の海野=1959年3月撮影

     新交響楽団・日本交響楽団(N響の前身)のヴァイオリニストであった父・次郎の手ほどきを受け、海野は幼い頃からヴァイオリンを学び、東京芸術大学に入学。57年にアカデミー弦楽四重奏団(海野、川上久雄、白柳昇二、斎藤鶴吉)を結成し、オーケストラのソリストとしても招かれるなど、在学中から才能が注目されていた。58年の芸大卒業と共にN響に入団。翌59年4月に23歳の若さでコンサートマスターに就任した。

    突然のソ連デビュー

     63年6月から約1年4カ月間、海野はN響の派遣でヨーロッパに留学する。最初の3カ月間はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンマス、ミシェル・シュヴァルベの元で指導を受け、その後はスイスへ移り、ヨーゼフ・シゲティの薫陶を受けた。

     帰国が近づいたある日、西岡から手紙が届いた。

     「日本に帰る前にソ連で仕事ができるからモスクワへ行くように、という手紙でした。モスクワで通訳が出迎えて説明するから、と指示を受けました」

     64年といえば西岡がソ連からアーティスト招請に乗り出していた時期だ。招請だけの一方通行ではなく、日本からの売り込みも、と考えたのかもしれない。キエフ(現ウクライナ)で行われた海野の公演は、ソ連が同時期に打ち上げた有人宇宙船ヴァスホートにささげられ、現地でも大きく報じられたという。

     実は、この時海野をモスクワの空港で出迎えたのが本連載(第46回)で紹介した許真(ホ・ジン)であった。

     「『私、許です。あなた海野さんでしょう』といきなり声をかけられました。日本人だと思ったら、自分は韓国の人間で日本人ではない、大学で日本語を教えています、とのことでした。あまりにも完璧な日本語を話すので、帰国して西岡さんに報告しました。すごい通訳がいた、と。西岡さんが許さんに通訳を依頼するようになったとのはそれからだと思います」

     北朝鮮からソ連に亡命した許が、タシケントからモスクワに移ったのが64年。新芸関係者で最も早く許に会ったのは海野であったようだ。

    ソ連での「偉大な成功」

     西岡は68年にも海野のソ連ツアーをアレンジしている。67年にウィーンでトーン・キュンストラー管弦楽団の定期公演にソリストとして出演。その足でドイツのハンブルクへ向かい、ドイツ・グラモフォンとの契約でハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮・北ドイツ放送交響楽団とメンデルスゾーン、チャイコフスキーの2大協奏曲を録音するなど、海野が海外で快進撃を続けていた時期であった。

     「当初はリサイタルだけ5カ所ぐらいの予定でしたが、モスクワに行くと、西岡さんがひょっこり現れたのです。応援に来たぞ、という感じでした(笑う)。着いた2日後だったでしょうか、西岡さんから『すごいオーケストラと、ボリショイホール(モスクワ音楽院大ホール)でメンデルスゾーンのコンチェルトができるぞ』といわれました。ロジェストヴェンスキー指揮のモスクワ放送交響楽団。当時ソ連の3大オーケストラの一つでした。西岡さんがモスクワに来て急に話が決まったのです。以前から、響きの良いこのホールでコンチェルトを弾いてみたい、と西岡さんと話していました。夢を実現してくれたのです」

     ボリショイホールでの演奏会は拍手がやまず、バッハの無伴奏曲をアンコールで弾いた。その場には毎日新聞のモスクワ特派員の姿もあり、帰りに支局へ寄らないかと誘われた。

     「支局に行くと、ポコポコと機械の音がして、タス通信から記事が入って来ました。『さっきの演奏会の記事がもう世界中に配信されているんですよ』といわれて驚きました」

    68年2月17日付毎日新聞はモスクワ支局発で次のような記事を掲載している。「2月16日の海野の演奏は聴衆を魅了し、タス通信が『偉大な成功』と論評した。1月25日訪ソ後の演奏旅行についても、プラウダ紙まで珍しく『新しき天才』と伝えるなど絶賛を浴び、この夜はサヨナラ公演だった。演奏後には会場から『オーオー』と感激の歓声がわき起こった」

    毎日ソリステンで演奏する海野=71年11月15日撮影

    10大協奏曲の夕べ

     以前に痛めた右手首の状態が悪化し、海野は70年4月にN響を退団。ソロ活動に軸足を置く。73年3月には一人で連続3晩かけて協奏曲10曲を演奏するという壮大な企画が注目を集めた。プログラムは第1夜がタルティーニのニ短調▽ヴィヴァルディの「四季」から〝春〟▽モーツァルトの第5番▽チャイコフスキー、第2夜がバッハの第2番▽プロコフィエフの第2番▽ブラームス、第3夜がモーツァルトの第3番▽メンデルスゾーン▽ベートーヴェン。協演は森正指揮の読売日本交響楽団だった。

     実はこの演奏会、東京文化会館で新芸が予定していた何かの演奏会が実現せず、穴埋めのために考えられた企画だったらしい。

     「予約した会場を使わないで返すわけにいかないから、と西岡さんに頼まれたのです。

     東京芸大の入試の時期で、昼は入試、夜本番、すごい無理をしてやった演奏会だったんです(笑う)」。それにもかかわらず見事な演奏を聴かせ、海野の実力を改めて印象づけることになった。

     世界28カ国、90都市で演奏活動を展開。指導者としても多くの優れた演奏家を育てた海野は西岡より14歳年下だが不思議と気が合い、よく食事を共にしたという。

     「N響を辞めた後も、ソロの仕事をちゃんと作ってやるから、と、とても親身になって、外国でもたくさん演奏活動ができるようにバックアップしてくれました。本当にお世話になりました」

     生前、西岡が筆者に語った言葉を思い出す。

     「呼び屋とマネジャーは違う。呼び屋は、外国から演奏家を呼んで商売するだけの『興行師』。マネジャーは音楽家を育てながら商売をするもの。僕は両方やったんだよ」

    【野宮珠里】

    (文中敬称略、原則として文中の引用文は原表記のまま)

    ※隔週土曜日掲載。次回は12月8日の予定です。

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