メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

イタリア・オペラの楽しみ

トスカの「歌に生き、愛に生き」はなぜ「恋に生き」と訳してはいけないのか

香原斗志 

 プッチーニの「トスカ」は、主要登場人物が3人とも非業の死を遂げるという、ある意味、凄惨(せいさん)な内容でありながら、古今において人気作である。そして第2幕で、恋人のカヴァラドッシを処刑されたくないなら自分に身を任せろと迫るスカルピアの情欲に追いつめられたトスカが歌う「歌に生き、愛に生き(Vissi d’arte, vissi d’amore)」は、古今のオペラ・アリアのなかでも知名度と人気ともに、五指には入るのではないだろうか。

    新国立劇場で繰り返し上演されているディアツ演出版は、絢爛(けんらん)豪華な美術を用い、正統派なアプローチで人気だ=2018年7月 (C)新国立劇場「トスカ」撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場

     ところで、「歌に生き、恋に生き」と訳されていることがあるが、私は強い違和感を覚えてきた。プッチーニは、このアリアがドラマの進行を妨げてしまうので削除したがっていたともいわれるが、そのことは、いまはとりあえず忘れておいていい。違和感のわけを説明する前に、アリアの訳詞を記しておきたい。

     「私は歌(芸)に生き、愛に生きて、いままで人に悪いことをしたこともありません! 知り合った惨めな人には、手を差し伸べ、助けてきました。いつも真摯(しんし)に信仰し、私の祈りは聖なる祭壇に昇り、いつも真摯に信仰して、祭壇にお花を供えてきました。苦しんでいるときにどうして、どうして、神さま、私にこんな報いをするのですか。私は聖母のマントに宝石を捧(ささ)げ、星と天に歌を捧げてきて、そうすると星と天はいっそう美しく微笑(ほほえ)みました。苦しんでいるときにどうして、どうして、神さま、私にこんな報いをするのですか」

     歌詞を通して読むと、トスカの信仰心が篤いことがわかる。そして彼女は、職業として携わってきた「歌」は、神がいます天に捧げてきたと書かれている。これが「歌に生き」の意味だろう。では「愛に生き」の意味は、歌詞のどこに見いだせるだろうか。惨めな人に手を差し伸べ、真摯に信仰し、祭壇に花を供えてきた旨が書かれているが、これが「愛」の意味であるに違いない。すなわち、キリスト教の重要な教義である隣人愛であり、真摯な信仰は神への愛を指しているものと考えられる。

    神への愛に生きてきたトスカ

     ヨハネの手紙の第4章7節から11節には、次のように書かれている。

     「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」

     神とは愛することによって初めて近づける対象であり、また、他人もまた愛さなければいけない、と書かれ、「歌に生き、愛に生き」の歌詞と見事に重なっている。トスカは「愛に生き」ることで神を知ろうと努め、人に悪いことをせず、惨めな人に手を差し伸べて「互いに愛し合うべきである」という教えを忠実に守ってきた。だから、窮地に陥ったいま、助けてほしいと神に訴えている。そう理解するのが自然だろう。

     したがって、「amore」を神への「愛」と解釈すれば、アリアの歌詞は最初から最後まで辻褄(つじつま)が合う。だが、「恋」と訳した場合はどうだろうか。

     惨めな人にいつも手を差し伸べ、真摯に祈ってきました、私は神様をこんなに篤く信仰し、神様の教えにこれほど誠実だったんです、と必死に懇願しているトスカが、同時に「カヴァラドッシへの恋に生きてきました」なんていう利己的な主張を交えるだろうか。それも、訴えの冒頭に。「恋」の対象はカヴァラドッシだけではないかもしれないが、信仰心が篤いトスカが、いざ追いつめられたときに神に助けを求めながら、「私はいままで何人もの男性に恋してきました」などと訴えるだろうか。神に救いを求めるなら、神の教えに自分がいかに忠実であるかを示すしかないだろう。したがって、「amore」は「愛」としか訳せないはずなのである。

    アリア「歌に生き、愛に生き(Vissi d’arte, vissi d’amore)」を歌うトスカ (C) 新国立劇場「トスカ」撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場

    トスカはなぜ自殺したのか

     ところで、トスカは最後、彼女がスカルピアを刺殺したことに気づいたスポレッタやシャッローネたちに追われ、「おお、スカルピア、神の御前で!(O Scarpia, avanti a Dio!)」

    と叫んで、サンタンジェロ城の屋上から身を投げる。自殺である。

     よく知られているように、カトリック教会は自殺を、殺人と変わらない大罪とみなしてきた。自分を殺すのも、他人を殺すのも、同じように人間を創造した神に対する反抗だと考えられてきたのだ。もっとも、自殺が罪であると聖書のなかに明確に記されているわけではなく、それを罪とするようになったのは、4世紀から5世紀に活躍した神学者のアウグスティヌスが著書『神の国』に、「自殺は、神によって与えられた命を絶つ人間の行為として最大の罪」と記して以降だという。

     ともかく、「罪」とされたために教会は長く自殺者に冷淡で、以前は自殺者には葬儀ミサも行われず、埋葬も拒まれたという。また、現代の「カトリック教会のカテキズム」においても、「わたしたちは神が委ねてくださったいのちの管理者であって所有者ではありません」(2280番)と、自殺を戒めている。要するに、自殺は神の「愛」に真っ向から反するものだとされているのだ。

     では、信仰心が篤く、神への愛を必死に訴えたトスカが、なぜ大罪とされる自殺を選んだのだろうか。トスカは「歌に生き、愛に生き」を歌った後、脅迫に屈するように見せてスカルピアに自分とカヴァラドッシの安全通行証を書かせ、この悪漢を刺殺する。この時点でトスカは、恋人は処刑を免れたと確信しただろう。そして、自身の「愛」が神に通じた、神は捨てたものではないと思ったことだろう。

    カヴァラドッシの死によって、トスカの神への愛は裏切られる (C)新国立劇場「トスカ」撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場

     ところが、自由が得られたと思ったのは錯覚で、カヴァラドッシは銃殺されてしまった。こうなると、「歌に生き、愛に生き」の歌詞に象徴的に表されている篤い信仰心に、意味があったのか、すなわち、神への「愛」とはいったいなんだったのか。トスカの絶望は、瞬時にそうした諦念にたどり着いたに違いない。神への「愛」がすっかり裏切られてしまった以上、もはや神の被造物としてこの世で生きるのは不可能だ。絶望したトスカがそう考えても不思議ではあるまい。

     トスカはなぜ最期に、愛するカヴァラドッシの名ではなく、スカルピアの名を叫んだのか、という疑問が示されることがある。だが、不思議ではない。信仰心が篤いトスカだから、自殺が罪であることも、ミサや埋葬の対象外になりかねないことも百も、承知だったはずだ。それでも、神に裏切られて絶望した彼女に、ほかに選択肢はなかった。しかるのちは神の前で裁きを受けるほかない。だが、「歌に生き、(神への)愛に生き」てきた彼女は、いくら自殺(およびスカルピアの殺人)という罪を犯したとはいえ、政敵や恋敵を次々と抹殺してきたスカルピアと同じ罪を負うことになるのか。そこは神に正しく裁いてもらいたい。そう思ったのだと考えれば辻褄が合う。

     神の御前での裁きが、すぐに行われるものを指しているのか、最後の審判を指しているのか、そこはわからない。いずれにせよ、「恋に生き」と訳してしまうと、「どうしてカヴァラドッシの名を叫ばなかったのか」という疑問が、くすぶり続けざるをえない。

    筆者プロフィル

     香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家、オペラ評論家。イタリア・オペラなど声楽作品を中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や公演プログラム、研究紀要、CDのライナーノーツなどに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に「イタリアを旅する会話」(三修社)、共著に「イタリア文化事典」(丸善出版)。新刊「イタリア・オペラを疑え!」がアルテスパブリッシングより好評発売中。

    おすすめ記事

    毎日新聞のアカウント

    話題の記事

    アクセスランキング

    毎時01分更新

    1. SMAP元メンバー出演に圧力か ジャニーズ事務所を注意 公取委
    2. ジャニーズ「圧力の事実はないが当局の調査は重く受け止める」 HPでコメント発表
    3. 「吾郎ちゃんら元SMAP3人、なぜテレビに出ないの?」に公取委が判断 ジャニーズに注意
    4. 民放テレビ局幹部 ジャニーズ事務所から「圧力ないが過剰にそんたくはあったかも」
    5. 新しい地図 ファンの笑顔と共に 3人で描く

    のマークについて

    毎日新聞社は、東京2020大会のオフィシャルパートナーです