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香原斗志「イタリア・オペラ名歌手カタログ」

<第1回> バルバラ・フリットリ(ソプラノ)

輝かしい倍音、無限のニュアンス

ヴェルディの旋律に生命を宿した不世出のソプラノ

バルバラ・フリットリ

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 今月からお届けする香原斗志さんの新連載「イタリア・オペラ名歌手カタログ」。声楽作品や歌手について造詣が深い香原さんですが、とりわけイタリアの歌手やオペラについて、歌唱の点から鋭い分析を行うなど、数多く執筆されています。連載では往年の名歌手から現在活躍する気鋭の若手に至るまで、イタリアのオペラ歌手を毎回1人取り上げ、その魅力をつづっていただきます。

          ◇

 ヴェルディの旋律に、彼女ほど生命を与えられるソプラノは、ほかに想像がつかない。偉大な声は過去にもいたが、美しい声が多彩なニュアンスや知的な制御と並び立っている点で、バルバラ・フリットリを超える逸材がいたとは思えない。

 1990年代中ごろだっただろうか。劇場で歌いはじめて間もないフリットリの声を録音で聴き、くぎづけになった。美声に心を奪われ、美しさを構成する要素に驚かされた。芯のある声で歌のラインがしっかりと描かれているのはもちろん、言葉が犠牲になることなく無限の響きが乗せられている。そして、響きのニュアンスが言葉の意味や感情の起伏に応じて細やかに変化し、縦横に、だが繊細に強弱がつけられていく。ピアニッシモの美しさときめの細かさは、言葉を失うほどだった。

 来日の予定はないのか、と思って調べても見当たらず、イタリアで聴くことにした。彼女の歌をはじめて生で聴いたのは2000年12月、ミラノ・スカラ座のシーズン開幕に選ばれたヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」だった。リッカルド・ムーティが指揮し、サルヴァトーレ・リチートラやレオ・ヌッチを相手に歌ったフリットリのレオノーラを、私は史上最強のレオノーラと信じて疑わない。

 全盛期のフリットリの歌唱には、黄金をまぶしたかのような輝かしい倍音が伴い、ニュアンスがどこまでも多彩だった。かつて「イル・トロヴァトーレ」は力強く歌われがちだったが、実は、ヴェルディは歌唱に関し、スコアに過剰と思えるほど細かく表情記号を書き込んでいる。ムーティの指示で、フリットリがヴェルディの指示に忠実に歌ったとき、旋律に初めて宿るべき生命が宿ったように感じた。

 また、小さな音符の連なりを敏捷(びんしょう)に歌い抜くアジリタも、ロッシーニが書いたような細かいものは彼女に向かないが、ヴェルディが初期から中期にかけて書いたものは上手にこなす。加えて音色に宿る微妙な陰りが、「イル・トロヴァトーレ」の夜の世界と絶妙にマッチしていた。宮廷の女官であるレオノーラの恋心も、悲しみも、絶望も、死への覚悟も、高貴なまでに流麗な旋律を通して、真に迫ってきた。

 翌年はやはりムーティ指揮でプラシド・ドミンゴらと共演したスカラ座の「オテッロ」、その翌々年はトリノ王立劇場の「シモン・ボッカネグラ」と、2005年にナポリのサン・カルロ劇場の日本公演で「ルイザ・ミラー」の表題役を歌うために初来日するまで、ヨーロッパへのフリットリ詣でを続けた。「シモン」の際、隣に座った老齢の女性が「ソプラノがすばらしい!」と何度も繰り返していたのが忘れられない。

 近年、舞台に立つ機会が減っているが、情感が知性に裏づけられた歌唱はなお健在だ。ヴェルディの、言葉と感情が魂をもったかのような旋律を表現するために、いかに知的な制御が必要であるか、そうすることで音楽がどれほど映えるか、最高の楽器で最高度に示してくれた不世出のソプラノだといえよう。

筆者プロフィル

 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家、オペラ評論家。イタリア・オペラなど声楽作品を中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や公演プログラム、研究紀要、CDのライナーノーツなどに原稿を執筆。声の正確な分析と解説に定評がある。著書に「イタリアを旅する会話」(三修社)、共著に「イタリア文化事典」(丸善出版)。新刊「イタリア・オペラを疑え!」がアルテスパブリッシングより好評発売中。La valse by ぶらあぼに「いま聴いておきたい歌手たち」、ファッション・カルチャー誌「GQ japan」web版に「オペラは男と女の教科書だ」を連載中。

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