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東条碩夫「マエストロたちのあの日、あの時」

シュヴァルツコップ(1)陽気な記者会見 初来日

朗らかな笑顔のシュヴァルツコップ(左)=1972年2月FM東京スタジオにて、筆者提供

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 20世紀屈指の名ソプラノ、エリーザベト・シュヴァルツコップが初めて来日したのは1968年4月のことである。そこに至るまでには、来日キャンセルなどを巡って招聘(しょうへい)元の新芸術家協会が彼女側を告訴するなどの紆余(うよ)曲折もあった(注)のだが、それも円満に収まっての初来日だった。

 その際にホテル・ニューオータニで開かれた記者会見ほど、明るくて陽気で、たのしいものは、あとにも先にもなかったといっていい。彼女のあたたかい雰囲気にあふれた笑顔、表情たっぷりの話しぶりは、詰めかけた音楽記者たちを、いっぺんに魅了してしまったのである。

 だれかが、「協演したアーティストたちのうち、特にあなたが気に入っている人の名を」と質問した時のことである。それに応えて彼女がにこやかに演奏家の名を次から次へとあげること、挙げること。カラヤンから始まって、その数はあっという間に20人を超した。「なんだ、協演した人の全員じゃないか」と、会場にも途中から軽い笑いが起こっていたが、そのあとで通訳が几帳面(きちょうめん)にその名を繰り返しているさなか、とつぜん彼女が思い出したように素っ頓狂(とんきょう)な声で「サヴァリッシュ!」と付け加えた時には、ついに記者連中もどっと笑い出してしまった。

 なにかの話題からレコーディングの話に飛んだ際、彼女がとつぜんステレオ・レコードの悪口を言い始めたこともあった。当時、ステレオのLPが登場して既に10年が過ぎ、ステレオの再生装置もかなり普及しており、「ひとつの電波でステレオ放送が聴ける」という「画期的な」FM放送もコアなファンには親しまれ始めていたが、まだ世の中には、左チャンネルと右チャンネルの分離度を重視したり、それを売り物にしたりする愛すべき風潮もあったのである。

 シュヴァルツコップが、陽気な口調で攻撃し始めたのは、そのことだった。大きな身ぶりで左を指したり右を指したりしながら、「あらヴァイオリンが左の方から聞こえるわ、あらまァ、チェロが右から聞こえるわ、わあステキ、ブラヴォー、なんてみなさん大騒ぎしているけど、そんなことが音楽の本質と何の関係があるっていうのかしら」と顔の表情も豊かに、「私の夫はレコード会社のプロデューサーなんだけど、古いモノーラルの録音をステレオに直すのに一生懸命になっているのよ。私の声を無理にそんなステレオにしたらどうなるの、こーんな(と顔を拡げる真似をして)お化けみたいになっちゃうじゃありませんか」という具合である。

 われわれも腹をかかえて笑いながら、「ダンナの仕事のことをあんな風に言っちゃって、いいのかねえ」と顔を見合わせたものだ。彼女の夫君とは、もちろんあのEMIの大プロデューサー、ウォルター・レッグのことである。

 こういう調子だから、ある記者がなにを思ったか「では最後に……」と質問しかけ、あわてて「あ、最後じゃない」と言い直した時に――ふつうなら「なにバカなこと言ってるんだあいつは」と周囲は冷たい目を向けるものだが――そんな時にさえもこの日は、他の記者たちも楽しげに大笑いしてしまうという、なんとも不思議な雰囲気が生まれていたのであった。決していわゆる「お笑い」の席ではないのに、1人の人間が、多くの人々を優しい感情の持ち主に変えてしまう。シュヴァルツコップは、まさにそんな奇跡のような力を備えた人だったのである。

 この記者会見の録音を私は当時のFM東海(東海大学FM放送)で放送し、リスナーからは「歌っている声ではなく、話したり笑ったりしているシュヴァルツコップの声を聴けたのは貴重だ」と喜ばれた。リサイタルのライヴを放送し、併せて番組ゲストに出演してもらうことができたのは、その4年後、局がFM東京に変わってからのことだった。(この項続く)

(注)野宮珠里著「新芸とその時代」(当クラシックナビ連載、人文書院刊)にはこの経緯が詳しく触れられている。

筆者プロフィル

 東条 碩夫(とうじょう・ひろお) 早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(音楽之友社刊)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。

ブログ「東条碩夫のコンサート日記 http://concertdiary.blog118.fc2.com」公開中。

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