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東条碩夫「マエストロたちのあの日、あの時」

ワレリー・ゲルギエフ(1)疲れを知らぬ超人

若かりし頃のゲルギエフ 写真提供:ジャパン・アーツ

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 1992年の暮れも押し詰まった頃、雪の街サンクトペテルブルクの一角に美しくそびえるマリインスキー劇場で、うわさの指揮者、ワレリー・ゲルギエフに初めて出会った。

 名門マリインスキー劇場(ソ連時代の名称はキーロフ劇場)の芸術監督を前任のユーリ・テミルカーノフから引き継ぎ、わずか4年の間に画期的な新機軸を打ち出している39歳のカリスマ的指揮者。音楽家にして事業家、野心家で社交家。劇場のレパートリーを大幅に拡(ひろ)げ、西欧の作品をも原語上演で多く取り上げ、西欧からスター歌手を招へいし、その一方で各国の歌劇場との共同制作を開始、映像とCDメディアにも積極的に進出。ペレストロイカで開放された社会体制をフルに利用した活動を展開しはじめている指揮者、ゲルギエフ。

 そういう彼の実績を初めて詳しく知り、その行動力に魅惑されたのが、この取材の折だった。なにせ、「ソ連」から「ロシア」に切り替わった時代となっても、あの国からの情報は、それまでかなり限られていたからである。

 その日の夜に上演されたプロコフィエフの「炎の天使」が、私の初めてのマリインスキーでのオペラ体験だった。オーストラリアの演出家デイヴィッド・フリーマンによるこの舞台は、1993年秋の日本初公演――あの時にはまだ「キーロフ・オペラ」という名称が使われていたが――でも紹介されたから、ご覧になった読者も多かろう。性的妄想に駆られた女性レナータ(ガリーナ・ゴルチャコーワが熱演していた)をめぐり、終幕では悪魔にとりつかれた尼僧たちが全裸で狂乱するという、ものすごい場面が出現する演出である。これはすでにロンドンやニューヨークへの引っ越し公演でも上演し、大変なセンセーションを巻き起こした演出ということだった。

 ただ、私が仰天したのは、そういう演出自体にではなく、ここロシアの歌劇場で――旧ソ連の消滅後まだ日の浅い時期なのに、そんな演出をもう堂々と取り入れている芸術監督ゲルギエフの急進的な姿勢に対してだったのだ。ゲルギエフもまあなんと大胆なことをやるものだ、と、私たちは驚いたり、感心したり。しかもこの日、客席には家族連れも多かったのである。子供も何人か一緒に観(み)に来ていたのだ。いったい親は……?

 終演後、開口一番「驚かれましたか」と、私たちを見て楽しそうに笑ったゲルギエフ。これが、私の彼への初めてのインタビューだった。「キーロフの舞台に裸の女性が出てくるなんて前代未聞でしょう。しかしこれは一種の香辛料みたいなものです。超能力や霊魂がもてはやされている現代にはちょうど合っている演出だと思いませんか?」

 このインタビューが始まったのは、深夜の、それもすでに1時を過ぎた頃だった。オペラが終わったあとにも、彼はスタッフや歌手たちと絶え間なく打ち合わせをする。楽屋で待っている私たちの前を、ゴルチャコーワが通る、騎士ルプレヒトを歌ったセルゲイ・レイフェルクスが通る。みんな芸術監督室に入って行き、何か語り合っている。それらの業務のあとで、彼はやっと取材に応じる。そして、午前2時半ごろまで、私たちと機嫌よく話に打ち興じるのであった。さすが若いだけあってエネルギッシュな人だ、と私たちは感心したのだが、それに付き合えたのは、幸か不幸か、こちらが時差ボケになっていたおかげであったろう。

 ゲルギエフのタフネスぶりは周知のとおりである。話は飛ぶが、その数年後の「白夜祭」の際には、彼は他の指揮者が振るマチネー公演のオペラにずっと立ち会ったあと、夕方から自らの演奏会のゲネプロを開始、夜の本番が深夜0時ごろに終わると、午前1時からネヴァ河のヨット船上で行なわれるパーティに出席、そこでおおいに飲みかつ食らい、朝6時まで仲間と騒ぎまくる。そしてそのあと、なんと午前10時から予定通りオペラのリハーサルを開始する――という調子だった。私たちは、1時45分に彼に別れを告げ、ネヴァ河の跳ね橋が閉じられる2時ぎりぎりに市内へ逃げ帰ったものだ。

 また確かその前後の頃だったと思うが、新潟でのオーケストラ公演のあと、彼は珍しくヒマだったらしく、楽屋口で私に「おい、飲みに行こう」と誘って来たことがある。私は酒が飲めないし、彼と付き合ったら体がもたないから、何やかやと理由をつけて断った。実にもったいないことをしたが、仕方がなかった。翌朝、未練がましく「昨夜は付き合えず悪かった」と言い訳したら、彼は「なぜ来なかった」とニヤリと笑い……。(この項続く)

筆者プロフィル

 東条 碩夫(とうじょう・ひろお) 早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(音楽之友社刊)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。

ブログ「東条碩夫のコンサート日記 http://concertdiary.blog118.fc2.com」公開中。

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