メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

香原斗志「イタリア・オペラ名歌手カタログ」

<第8回> ミレッラ・フレーニ(ソプラノ)

ミレッラ・フレーニ

[PR]

成熟しても失われなかった

正統的発声の清らかな声

 ルチアーノ・パヴァロッティと同郷にして同学年。ミレッラ・フレーニが生まれた1935年のモデナには、神が降臨したのだろうか。二人は「ラ・ボエーム」をはじめ重なるレパートリーが多かったが、とりわけ共通していたのは正統な発声だろう。天与の才に徹底した鍛錬を加えてはじめて得られる、心地よい発声と明瞭な発音。自然なままでは到底得られない自然な響きを誇ったという意味で、20世紀のオペラ界のトップに君臨した男声と女声が同じ年に同じ小さな都市で生まれたのは、奇跡としか思えない。

 フレーニの最大の当たり役は「ラ・ボエーム」のミミで、キャリアの最後までピュアなミミを歌った。1963年、カラヤンのオーディションを勝ち進んで歌ったスカラ座の、ゼッフィレッリ演出のプロダクションによる映像は、いまなお記念碑である。まだ20代だった彼女のミミは、叙情的な旋律線を満たす純粋で、清らかで、なめらかな声が比類なく、一音一音が大切にされつつ自然で気取りがなかった。

 だが、それだけなら、優秀な歌手の一人で終わったかもしれない。フレーニが偉大なのは上記した特質を維持したまま、すなわち美しさと清らかさを少しも失わずに、声を成熟させてより重い役を手中にしたことだ。彼女は自分の声が好きで、だからこそ時間をかけて自然に成長させたという。その結果、「ドン・カルロ」のエリザベッタ、「アドリアーナ・ルクヴルール」や「マノン・レスコー」の表題役といった、40代から50代に拡大したレパートリーにおいても、清浄な響き、なめらかなラインを失わず、気品を保ちながら劇性をも吹き込むことができた。

 一方、高音やアジリタはさほど得意ではなかった。キャリアの初期には「清教徒」のエルヴィーラなど装飾表現が問われる役も歌い、成果を残している。しかし、1964年にカラヤン指揮で歌ったスカラ座の「椿姫」で客席が騒いでスキャンダルになったのは、マリア・カラスの歌唱が耳に残るスカラ座の聴衆が難癖をつけた面もあろうが、第1幕でフレーニの持ち味が発揮されにくいことが最大の原因だったのではないだろうか。

 だが、それは彼女自身も認識していたようだ。たとえば「エルナーニ」のエルヴィーラなどは、歌ったのちに「自分に合わない」と発言していた。横隔膜を酷使するアジリタが、長いリリックな旋律線に生命を与える彼女の持ち味を損ないかねない、という判断だったようで、それに気づく力があったから、彼女の歌からは清らかさが失われなかったのだ。

 惜しくも今年、84歳で鬼籍に入ったフレーニ。その生の歌声を、私は残念ながら彼女が還暦に近づいてからしか聴いていない。しかし、1998年のボローニャ歌劇場日本公演の「フェドーラ」にせよ、大歌手の貫禄を存分に漂わせながら、どこまでも清らかだった。彼女は言葉のすみずみまで劇性を吹き込むが、それは気品ある簡潔な表現を通してのこと。表面的な誇張はどこにもなく、真に美しい歌ですべてを表現した。それこそが不世出の歌手の至芸である。

筆者プロフィル

 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家、オペラ評論家。イタリア・オペラなど声楽作品を中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や公演プログラム、研究紀要、CDのライナーノーツなどに原稿を執筆。声の正確な分析と解説に定評がある。著書に「イタリアを旅する会話」(三修社)、共著に「イタリア文化事典」(丸善出版)。新刊「イタリア・オペラを疑え!」がアルテスパブリッシングより好評発売中。La valse by ぶらあぼに「いま聴いておきたい歌手たち」、ファッション・カルチャー誌「GQ japan」web版に「オペラは男と女の教科書だ」を連載中。

おすすめ記事
広告
毎日新聞のアカウント
ピックアップ
話題の記事

アクセスランキング

毎時01分更新

  1. 虫歯治療後に2歳死亡 福岡の小児歯科元院長を近く在宅起訴へ

  2. 「やる気ないなら担当変える」河野行革相、放送規制改革で文化庁に発破

  3. 医師と歯科医師24人を行政処分 厚労省発表

  4. 安倍政権が残したもの 私たちが大事「彼ら」は攻撃 オウム真理教報じた江川紹子さんが読む「カルト化社会」

  5. 「首相、今井、佐伯で決めていたやり方がらっと変わる」 キャリア官僚の本音 菅政権で沈む省庁

のマークについて

今週のおすすめ
毎日新聞社は、東京2020大会のオフィシャルパートナーです