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チューリッヒ歌劇場の「ルイーザ・ミラー」でミラー役を歌うヌッチ (C)Danielle Liniger

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70代にして「現代最高のヴェルディ・バリトン」という奇跡

 1942年4月16日生まれだから、もう78歳だが、現役である。新型コロナ禍以前は、毎月のように大劇場で主役を歌う予定が入っており、今後も予定は埋まっている。70代になっても歌い続けた歌手は過去にもいたが、たいていは全盛期の片鱗(へんりん)でも感じられればよいほうで、過去の栄光への敬意を拭い去ると、正面から評価することがためらわれる歌であることが多い。だが、ヌッチは違う。「現代最高のヴェルディ・バリトンはだれか」と問われれば、いまなお「ヌッチ」と答えるほかない。リゴレットやジェルモンのような父親役、あるいはナブッコやマクベスのように運命に翻弄(ほんろう)される為政者を歌って、ヌッチほど聴き手に感銘を与えられるバリトンは、いまのところ地平線の彼方にも見えてこない。

 もちろん、40代、50代のころの声とくらべれば衰えはあるが、粒子がぎっしりと詰まった声で聴き手の言葉を失わせる響きの力と、もはや理屈を超えた圧倒的なオーラは、ほかのバリトンにはまねすらできない。強みはまだある。歌には歌い手の人生が投影されるが、多くの歌手は人生の酸いも甘いも知り尽くし、表現にえもいわれぬ滋味を加えられるようになるころには、楽器である肉体が衰えてしまう。一方、ヌッチは衰えが最小限であったので、年輪を重ねて深まった味わいを加味すると、60代、70代の歌の価値が過去に例のない水準で高かったといえるだろう。

 たとえば、2018年4月下旬、チューリッヒ歌劇場でヴェルディ「ルイーザ・ミラー」にミラー役で出演したヌッチは、76歳という年齢をまったく感じさせない劇的な歌唱を聴かせ、ソロではコーダをオクターブ上げて延々と響かせ、客席を沸かせた。指揮者はもう少し抑制の効いた表現を求めていたと思われるが、多少大げさに歌っても決して下品にならないのが、大歌手の至芸というものである。

 ヌッチは1967年にデビューし、ソリストを2年務めた後、スカラ座の合唱団員として7年を過ごしている。オペラの世界には越えがたい序列があり、一般に小さな役を歌うソリストでも合唱団員よりかなり格上とみなされる。だが、ヌッチはそれを承知のうえで合唱に立ち戻り、正しい呼吸法にもとづく適切な声帯の使い方を習得した。急がば回れの精神で自然な発声を身に着けたから、いつまでも「現代最高」でいられたのだ。それに、ヴェルディやヴェリズモを力強く歌うだけではない。70代になっても「セビーリャの理髪師」のフィガロが十八番で、アジリタやパルランド唱法を以前と遜色なく歌った。本物のテクニックを習得している証拠だろう。

 ヴェルディ生誕200年を記念したパルマ王立歌劇場のDVD「全ヴェルディ」は、多くの作品で60代のヌッチの圧倒的歌唱が堪能できる。東京・九段のイタリア文化会館で定期的に行われているこのDVD上映会で、ヌッチに出会うのもいい。2020年はコロナ禍でスカラ座の来日公演が流れ、ヌッチも来日できなかった。あと1回、来日してくれる機会があるだろうか。

筆者プロフィル

 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家、オペラ評論家。イタリア・オペラなど声楽作品を中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や公演プログラム、研究紀要、CDのライナーノーツなどに原稿を執筆。声の正確な分析と解説に定評がある。著書に「イタリアを旅する会話」(三修社)、共著に「イタリア文化事典」(丸善出版)。新刊「イタリア・オペラを疑え!」がアルテスパブリッシングより好評発売中。La valse by ぶらあぼに「いま聴いておきたい歌手たち」、ファッション・カルチャー誌「GQ japan」web版に「オペラは男と女の教科書だ」を連載中。

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