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在りし日のアルトゥーロ・トスカニーニ

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 東京FM系デジタル放送「ミュージックバード」のクラシックチャンネルで、アルトゥーロ・トスカニーニとNBC交響楽団の演奏を特集する(1月25日~)にあたり、できればプログラムに加えたかったのが、伝説的な彼の最後の公開生放送、1954年4月4日カーネギーホールでのワーグナー演奏会のライヴ録音だ。あの「タンホイザー」の「バッカナール」の中途で、暗譜で指揮するトスカニーニが一時的に記憶を失い、演奏が止まってしまったといういわく付きの演奏会である。

 かつてワルター協会からLPで出たそのライヴは、テープが編集され、切れ目なしの演奏に仕立てられていたため、当日の演奏に関し諸説が生まれる基となったが、それとは全く別にプライベート盤で一部に流れた当日のNBC放送の生中継の同録を聴くと、その「恐怖の瞬間」がリアルに浮かび上がってくる。

 「バッカナール」の狂おしい頂点が過ぎて夜明けが近づき、女声合唱「岸に近づきましょう!」が管弦楽編曲版(トスカニーニはここをヴァイオリン4本で演奏する版を使用している)で奏されるあたりから、音楽が何となく集中力を失いはじめたように感じられる。そして数小節後——Dover版総譜では469ページ上段の3小節目に相当し、Eulenburg版の「管弦楽編曲版」小型総譜では69ページの第257小節にあたる箇所の、その2拍目で演奏は突然止まってしまった。「巨匠は指揮をやめて、片手で両眼を覆った」とサミュエル・チョツィノフは書いている。

 楽員も聴衆も驚きに息を止めたであろう。チョツィノフが「ホールは恐るべき沈黙に閉ざされた」と書いたのは正しかった。この静寂はまことにものすごいもので、再生の音量を上げてみると、舞台裏で何も知らず練習しているらしい奏者のフルートかピッコロの音がかすかに聞こえてくるといった状態である。「沈黙」に入って15秒後、突然アナウンサーのベン・グラウアーによる「技術的な問題のため、ここでカーネギーホールからの中継を中断いたします」というアナウンスが入り、背後の慌ただしい物音や声が混じった雰囲気のうちに中継がぷつんと切れた。その7秒後には、非常の場合のために用意されていたというトスカニーニ指揮のブラームスの「第1交響曲」のレコードが、激しく響きはじめる。

 ところがその29秒後、何の告知もなしにそのレコードの音が急激にしぼられると、放送は突然カーネギーホールのマイクに戻り、再開されていた「バッカナール」が流れ出したのである。放送でそれが聞こえはじめたのは、前記Dover版総譜469ページ下段最後の小節の3拍目に相当する箇所からである。トスカニーニがいつ立ち直り、演奏を何十秒後に再開したのか、どの小節からだったのかは、推測の域を出ない。

 再開された「バッカナール」の演奏は、前にも増して不思議に美しいが、それは危機を脱したことによる安心感のせいだったのかもしれない。とにかく「バッカナール」は最後まで演奏され(これに関するチョツィノフの回想には誤りがある)、拍手が起こり、放送にはアナウンスが入る。ただしこのアナウンスの途中に明らかなテープ編集が認められるので、その間のトスカニーニの様子——もう1曲あるということを忘れて引っ込もうとしたのを、首席チェロ奏者フランク・ミラーにとどめられたとか、いろいろな言い伝えがあるが——は明らかでない。

 いずれにせよ、すぐ続いて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲の演奏が始まるのだが、その演奏の最後、最後のハ長調の和音の前にトスカニーニが指揮棒を取り落とし、そのまま答礼せずに退場してしまったことは、チョツィノフの回想録にも報告されているし、放送でもグラウアーが伝えている。NBC交響楽団がいくつの和音を「指揮なしで」響かせたかは定かでないが、この録音を聴いたところでは、最後の二つの和音——演奏会用に付け加えられたもの——の直前に、フライング拍手の音にも似た小さな異音が混じっているので、あるいはそれが指揮棒を落したことによる音なのかもしれない。

 続いている拍手にもかかわらず、トスカニーニは、その後ついにカーテンコールに姿を見せなかった。グラウアーの最後のアナウンスは、淡々としているが、悲痛である。「聴衆は見守っています。オーケストラは沈黙しています。私たちはマエストロ・トスカニーニがもう一度姿を現してくれることを祈るばかりです」。当日の生中継番組は、これで終わった。

 67年前のあの日、会場にいた人々だけでなく、放送を聴いた人々も、おそらく血の凍る思いをしたのではないか。今、この録音を聴き返してさえ、身の毛がよだつほどである。それゆえ、たとえ切れ目なしの演奏に修正編集された音源であっても痛々しい思いは抑えきれず、これを番組で放送するのは忍びない。放送人としては、いかに興味の尽きぬ素材であるとはいえ——。

筆者プロフィル

 東条 碩夫(とうじょう・ひろお) 早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。

ブログ「東条碩夫のコンサート日記 http://concertdiary.blog118.fc2.com」公開中。

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