写真特集 戦時下の「食」(2008年8月掲載) 2012/7/19 00:00 ツイート みんなのツイートを見る シェア ブックマーク 保存 メール リンク 印刷 [15/40] 次第に逼迫してくる食料事情に対処。大毎(大阪毎日新聞)3階で代用食の講習会=1940年7月撮影 食パンの指定配給所=1941年撮影 家庭用米穀通帳=1941年撮影 ビール配給券=1941年撮影 野菜が不足の八百屋の店頭=1941年7月8日撮影 大阪西区本田町2丁目の婦人部は節米のための種々の食事を持ち帰り研究会を開いた 戦時色濃く、米不足時代に入る=1941年撮影 給食のはじまりみたいなものだがお昼ごはんは各自持ちよったもので作って食べた=1942年4月29日撮影 いもに喜ぶ児童たち=1942年11月撮影 さつまいもの配給=1943年撮影 軍人外食券=1943年撮影 お米の供出・新潟=1943年撮影 いも掘りに励む農婦たち=1943年3月28日撮影 お坊さんも農作業・川崎大師=1943年4月撮影 サイダー瓶に入れた玄米を白米にするために、ハタキの柄でついている坊や。縁側の向こうには箱づくりの野菜が…=1943年6月撮影 国会議事堂前が耕地に。窮迫を極めた食料事情で白亜の殿堂もご覧のとおり=1943年7月撮影 物不足のため学校でも野菜作り=1943年10月撮影 東京へ芋を運ぶ京成電鉄の荷物電車=1943年10月撮影 学童疎開先での食事風景=1944年撮影 首相官邸中庭でさつまいも作り=1944年撮影 非常時用食料の貯蔵庫=1944年撮影 東京昭和通りの農園、かかしも立つ=1944年撮影 東京駅前の新丸ビルの建築工事も、戦時のため中断。その跡に水をため、防火用水と鯉を放して食糧の増産をはかる庶民の知恵=1944年1月8日撮影 加計塚国民学校で昼食にみそ汁を配る児童=1944年3月10日撮影 太平洋戦争も激化、食糧難で、米を持参しなければ旅行もできなかった時代。駅弁にも代用食弁当がお目見え=1944年撮影 行列が出来る雑炊食堂=1944年5月撮影 御茶ノ水駅の急斜面に開墾農園を作る人たち=1944年5月撮影 上半身裸で田植えの手伝いをする国民学校の児童たち=1944年5月19日撮影 終戦前年の保育所の昼食風景=1944年6月撮影 学校農園の収穫=1944年6月撮影 町のグリーンベルトも農園に=1944年6月撮影 戦時農園・スコップをかついで青年は農場へ=1944年7月22日撮影 町のグリーンベルトも農園に=1944年6月撮影 疎開先に早く着き、さっそく母親の心づくしの昼食弁当に舌鼓をうつ児童たち=1944年8月5日撮影 大森、荏原の都民配給用の大根輸送電車=1944年1月撮影 軍用食糧を供出。温かいおにぎりを配る兵士=1945年3月15日撮影 特攻隊、女学生の給仕で最後の朝食=1945年4月撮影 横浜大空襲焼け跡で食事の市民=1945年5月撮影 カボチャを作ろうとPRの女子挺身隊=1945年5月11日撮影 焼け出された朝、やっと持ち出したフトンとわずかな家財を横に、七輪で朝食の支度をする婦人=1945年5月11日撮影 空襲による焼け跡はすぐ整地して畑となり食糧の生産、畑には日の丸が。敗戦直前の昭和20年=1945年5月4日撮影 あわせて読みたい スポニチのアクセスランキング 現在 昨日 1カ月 アクセスランキングトップ