広島原爆アーカイブ

写真特集 毎日新聞記者が捉えた被爆1カ月の広島

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  • (1)広島駅前に出現した「ビール立飲所」(爆心地から1900メートル)。中央奥に猿猴橋水管橋と比治山=広島市松原町(現広島市南区松原町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (1)広島駅前に出現した「ビール立飲所」(爆心地から1900メートル)。中央奥に猿猴橋水管橋と比治山=広島市松原町(現広島市南区松原町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (1)広島駅前にバラック小屋で商売を再開した店。看板には「食料御持参の方には「たい」て上げます 旅行者各位 貸本屋 松原町四組」とある(爆心地から2000メートル)=広島市松原町(現広島市南区松原町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (1)広島駅前にバラック小屋で商売を再開した店。看板には「食料御持参の方には「たい」て上げます 旅行者各位 貸本屋 松原町四組」とある(爆心地から2000メートル)=広島市松原町(現広島市南区松原町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (1)戦後まもなくヤミ市ができた広島駅南口は、駅前再開発で高層ビルが建ち並ぶ=広島市南区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (1)戦後まもなくヤミ市ができた広島駅南口は、駅前再開発で高層ビルが建ち並ぶ=広島市南区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 原爆投下1カ月後に毎日新聞記者が撮影したポイント
    原爆投下1カ月後に毎日新聞記者が撮影したポイント 記事本文を読む
  • (2)焼け跡に建てられたバラック小屋(爆心地から1300メートル)。左奥の土手の上には「下柳町町内会」の幟旗がある。町会員1000人中、生存者は70人だった=広島市下柳町(現広島市中区銀山町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (2)焼け跡に建てられたバラック小屋(爆心地から1300メートル)。左奥の土手の上には「下柳町町内会」の幟旗がある。町会員1000人中、生存者は70人だった=広島市下柳町(現広島市中区銀山町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (2)京橋川を西から望む。戦後しばらくは壁のような土手があり、付近にはバラックが建ち並んだ=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (2)京橋川を西から望む。戦後しばらくは壁のような土手があり、付近にはバラックが建ち並んだ=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (3)中国新聞社を南東から撮影(爆心地から880メートル)。右奥に広島流川教会、左端は福屋旧館=広島市上流川町(現広島市中区胡町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (3)中国新聞社を南東から撮影(爆心地から880メートル)。右奥に広島流川教会、左端は福屋旧館=広島市上流川町(現広島市中区胡町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (3)中国新聞跡には広島三越が建ち、南側は飲食店街が広がる=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (3)中国新聞跡には広島三越が建ち、南側は飲食店街が広がる=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (4)アメのように曲がった呉服問屋小田政商店の鉄骨。北東側から南西を撮影(2枚の写真を合成・爆心地から840メートル)。奥には(左から)安田銀行広島支店、大林組広島支店、帝国銀行広島支店、安田生命広島支店、住友銀行広島支店、芸備銀行本店など=広島市胡町(現広島市中区胡町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (4)アメのように曲がった呉服問屋小田政商店の鉄骨。北東側から南西を撮影(2枚の写真を合成・爆心地から840メートル)。奥には(左から)安田銀行広島支店、大林組広島支店、帝国銀行広島支店、安田生命広島支店、住友銀行広島支店、芸備銀行本店など=広島市胡町(現広島市中区胡町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (4)小田政商店跡の東隣にある胡神社。かつては洋品店などが軒を連ねた胡通。いまは飲食店街となり、夜は会社員らでにぎわう=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (4)小田政商店跡の東隣にある胡神社。かつては洋品店などが軒を連ねた胡通。いまは飲食店街となり、夜は会社員らでにぎわう=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (5)堀川町付近より比治山方面を撮影(爆心地から800メートル)。左奥の煙突は、久保田醤油のものと思われる=広島市堀川町(現広島市中区堀川町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (5)堀川町付近より比治山方面を撮影(爆心地から800メートル)。左奥の煙突は、久保田醤油のものと思われる=広島市堀川町(現広島市中区堀川町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (5)堀川町から西を望む。通りは比治山の北端に伸びるが、飲食店が建ち並び見通すことができない=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (5)堀川町から西を望む。通りは比治山の北端に伸びるが、飲食店が建ち並び見通すことができない=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (6)陸軍西練兵場南東角(爆心地から600メートル)。爆風で木が爆心地と反対方向に折れている。左奥に広島県商工経済会=現広島市中区基町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (6)陸軍西練兵場南東角(爆心地から600メートル)。爆風で木が爆心地と反対方向に折れている。左奥に広島県商工経済会=現広島市中区基町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (6)明治天皇廣島行在所碑(爆心地から715メートル)。1885(明治18)年に明治天皇が広島に行幸した際、行在所(宿泊所)とした偕行社内に建立されたもの。右奥は手前から、福屋旧館、中国新聞社新館、本館、日本勧業銀行広島支店。碑の左奥に広島流川教会=広島市基町(現広島市中区基町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島城主任学芸員・玉置和弘氏の検証による
    (6)明治天皇廣島行在所碑(爆心地から715メートル)。1885(明治18)年に明治天皇が広島に行幸した際、行在所(宿泊所)とした偕行社内に建立されたもの。右奥は手前から、福屋旧館、中国新聞社新館、本館、日本勧業銀行広島支店。碑の左奥に広島流川教会=広島市基町(現広島市中区基町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島城主任学芸員・玉置和弘氏の検証による 記事本文を読む
  • (6)八丁堀から東を望む。北西側は軍用地だった=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (6)八丁堀から東を望む。北西側は軍用地だった=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (7)1階が押しつぶされ、アーチ窓の2階と時計台が形をとどめた下村時計店(爆心地から620メートル)。右奥は袋町国民学校。左奥の煙突は風呂屋(盛原・鉄砲町)と思われる=広島市平田屋町(現広島市中区本通)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (7)1階が押しつぶされ、アーチ窓の2階と時計台が形をとどめた下村時計店(爆心地から620メートル)。右奥は袋町国民学校。左奥の煙突は風呂屋(盛原・鉄砲町)と思われる=広島市平田屋町(現広島市中区本通)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (7)1873年創業の下村時計店は同じ場所で再建されて現在も営業している=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (7)1873年創業の下村時計店は同じ場所で再建されて現在も営業している=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (8)屋根が抜け落ち、爆心地側の外壁が著しく破壊された帝国銀行広島支店(北西面)。激しい火災にも見舞われた(爆心地から360メートル)=広島市革屋町(現広島市中区本通)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (8)屋根が抜け落ち、爆心地側の外壁が著しく破壊された帝国銀行広島支店(北西面)。激しい火災にも見舞われた(爆心地から360メートル)=広島市革屋町(現広島市中区本通)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (8)屋根が抜け落ちた帝国銀行広島支店の内部の北西角(爆心地側)。激しい火災にも見舞われた(爆心地から360メートル)=広島市革屋町(現広島市中区本通)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (8)屋根が抜け落ちた帝国銀行広島支店の内部の北西角(爆心地側)。激しい火災にも見舞われた(爆心地から360メートル)=広島市革屋町(現広島市中区本通)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (8)帝国銀行広島支店内部。天井、屋根が崩れ落ち、外壁は爆心地に近い北西部が著しく破壊された(爆心地から360メートル)=広島市革屋町(現広島市中区本通)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (8)帝国銀行広島支店内部。天井、屋根が崩れ落ち、外壁は爆心地に近い北西部が著しく破壊された(爆心地から360メートル)=広島市革屋町(現広島市中区本通)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (8)修復された帝国銀行広島支店には、今はベーカリー「アンデルセン」が入る。広島に残った代表的な被爆建物の一つでもある=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (8)修復された帝国銀行広島支店には、今はベーカリー「アンデルセン」が入る。広島に残った代表的な被爆建物の一つでもある=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (9)爆心地と反対方向に倒壊した煙突(爆心地から300メートル)。奥の建物は(右から)中国新聞社、福屋新館、福屋旧館=広島市革屋町(現広島市中区本通)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (9)爆心地と反対方向に倒壊した煙突(爆心地から300メートル)。奥の建物は(右から)中国新聞社、福屋新館、福屋旧館=広島市革屋町(現広島市中区本通)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (9)復興を遂げ、本通商店街周辺は広島を代表する繁華街となった=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (9)復興を遂げ、本通商店街周辺は広島を代表する繁華街となった=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (10)倒れた国泰寺のクスノキ。樹齢300年で天然記念物に指定され、市電建設の際、軌道を迂回させた(爆心地から500メートル)=広島市小町(現広島市中区小町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (10)倒れた国泰寺のクスノキ。樹齢300年で天然記念物に指定され、市電建設の際、軌道を迂回させた(爆心地から500メートル)=広島市小町(現広島市中区小町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (10)大クスノキで知られた国泰寺は戦後移転したが、西隣の白神社は同じ場所に再建された。青々とした葉が生い茂る被爆樹が残る=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (10)大クスノキで知られた国泰寺は戦後移転したが、西隣の白神社は同じ場所に再建された。青々とした葉が生い茂る被爆樹が残る=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (11)門柱だけが残った広島文理科大学理論物理学研究所(現広島大学東千田キャンパス・爆心地から1600メートル)。ほとんどの研究員が死傷し、研究は全て中止となった=広島市東千田町(現広島市中区東千田町1)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (11)門柱だけが残った広島文理科大学理論物理学研究所(現広島大学東千田キャンパス・爆心地から1600メートル)。ほとんどの研究員が死傷し、研究は全て中止となった=広島市東千田町(現広島市中区東千田町1)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (11)広島文理科大(現広島大)の敷地内に建つ慰霊碑=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (11)広島文理科大(現広島大)の敷地内に建つ慰霊碑=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (12)広島赤十字病院での治療風景(爆心地から1500メートル)=広島市千田町1(現広島市中区千田町1)で1945年9月9日前後、山上圓太郎撮影※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (12)広島赤十字病院での治療風景(爆心地から1500メートル)=広島市千田町1(現広島市中区千田町1)で1945年9月9日前後、山上圓太郎撮影※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (12)広島赤十字病院での治療風景(爆心地から1500メートル)=広島市千田町1(現広島市中区千田町1)で1945年9月9日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (12)広島赤十字病院での治療風景(爆心地から1500メートル)=広島市千田町1(現広島市中区千田町1)で1945年9月9日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (12)広島赤十字病院での治療風景(爆心地から1500メートル)=広島市千田町1(現広島市中区千田町1)で1945年9月9日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (12)広島赤十字病院での治療風景(爆心地から1500メートル)=広島市千田町1(現広島市中区千田町1)で1945年9月9日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (12)広島赤十字病院での治療風景(爆心地から1500メートル)=広島市千田町1(現広島市中区千田町1)で1945年9月9日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (12)広島赤十字病院での治療風景(爆心地から1500メートル)=広島市千田町1(現広島市中区千田町1)で1945年9月9日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (12)広島赤十字病院の敷地内に移設された被爆窓枠と壁。爆心地に近い北側の窓枠は内側に、西側の窓枠は外側に湾曲し、爆風のすさまじさを物語る=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (12)広島赤十字病院の敷地内に移設された被爆窓枠と壁。爆心地に近い北側の窓枠は内側に、西側の窓枠は外側に湾曲し、爆風のすさまじさを物語る=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (13)広島瓦斯本社を北から撮影。南西の角を残して崩壊し、全焼した(爆心地から210メートル)。右奥に広島県農業会広島支所=広島市大手町3(現広島市中区大手町2)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (13)広島瓦斯本社を北から撮影。南西の角を残して崩壊し、全焼した(爆心地から210メートル)。右奥に広島県農業会広島支所=広島市大手町3(現広島市中区大手町2)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (13)広島瓦斯本社の跡地は公園となり、園内には慰霊碑が建つ=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (13)広島瓦斯本社の跡地は公園となり、園内には慰霊碑が建つ=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (14)元安橋から北を撮影。石垣の堤防の一部は崩壊した(爆心地から130メートル)。左奥は本川国民学校。右端は相生橋の一部=現広島市中区中島町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (14)元安橋から北を撮影。石垣の堤防の一部は崩壊した(爆心地から130メートル)。左奥は本川国民学校。右端は相生橋の一部=現広島市中区中島町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (14)爆心地に近い元安橋西側の平和記念公園には木々が生い茂る=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (14)爆心地に近い元安橋西側の平和記念公園には木々が生い茂る=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (15)相生橋上から南側を撮影(3枚の写真をパノラマ合成・爆心地から300メートル)。左から日本赤十字社広島支部の一部、広島県産業奨励館(現原爆ドーム)、広島瓦斯本社、元安橋、中国配電本店、燃料会館(現レストハウス)、三井生命広島支社=1945年9月11日前後、新見達郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (15)相生橋上から南側を撮影(3枚の写真をパノラマ合成・爆心地から300メートル)。左から日本赤十字社広島支部の一部、広島県産業奨励館(現原爆ドーム)、広島瓦斯本社、元安橋、中国配電本店、燃料会館(現レストハウス)、三井生命広島支社=1945年9月11日前後、新見達郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (15)切断された相生橋の鉄筋(爆心地から300メートル)=1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (15)切断された相生橋の鉄筋(爆心地から300メートル)=1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (15)原爆投下の目標地点とされたT字型の相生橋から南を望む。左は原爆ドーム、右は平和記念公園=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (15)原爆投下の目標地点とされたT字型の相生橋から南を望む。左は原爆ドーム、右は平和記念公園=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (16)被爆1カ月後。広島城付近で新芽を出した植物。手前中央はカボチャ、左隣はトウゴマと思われる(爆心地から400メートル)。奥には、本川国民学校が見える=広島市の広島城(現広島市中区基町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (16)被爆1カ月後。広島城付近で新芽を出した植物。手前中央はカボチャ、左隣はトウゴマと思われる(爆心地から400メートル)。奥には、本川国民学校が見える=広島市の広島城(現広島市中区基町)で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (16)現代的なデザインの広島県立総合体育館周辺=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (16)現代的なデザインの広島県立総合体育館周辺=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (17)広島城二の丸から本丸下段西側(現在の広島護国神社儀式殿付近)にあった中国軍管区司令部1号庁舎跡を撮影(3枚の写真をパノラマ合成・爆心地から740メートル)=現広島市中区基町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島城主任学芸員・玉置和弘氏の検証による
    (17)広島城二の丸から本丸下段西側(現在の広島護国神社儀式殿付近)にあった中国軍管区司令部1号庁舎跡を撮影(3枚の写真をパノラマ合成・爆心地から740メートル)=現広島市中区基町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島城主任学芸員・玉置和弘氏の検証による 記事本文を読む
  • (17)広島城二の丸平櫓、多門櫓、太鼓櫓跡。御門橋西詰よりやや南側から東を撮影。手前は内堀(爆心地から650メートル)=現広島市中区基町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島城主任学芸員・玉置和弘氏の検証による
    (17)広島城二の丸平櫓、多門櫓、太鼓櫓跡。御門橋西詰よりやや南側から東を撮影。手前は内堀(爆心地から650メートル)=現広島市中区基町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島城主任学芸員・玉置和弘氏の検証による 記事本文を読む
  • (17)広島城二の丸から本丸を望む。中国軍管区司令部などが置かれた本丸は、今は木々に覆われる。左は広島護国神社=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (17)広島城二の丸から本丸を望む。中国軍管区司令部などが置かれた本丸は、今は木々に覆われる。左は広島護国神社=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (18)広島城二の丸を撮影(爆心地から750メートル)。右端は、被爆樹木として現存するユーカリ=現広島市中区基町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (18)広島城二の丸を撮影(爆心地から750メートル)。右端は、被爆樹木として現存するユーカリ=現広島市中区基町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (18)原爆の熱線に耐えた広島城二の丸のユーカリ。今も濃緑の葉を生い茂らせる=広島市中区で2017年7月10日、山田尚弘撮影
    (18)原爆の熱線に耐えた広島城二の丸のユーカリ。今も濃緑の葉を生い茂らせる=広島市中区で2017年7月10日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (19)倒壊した広島城天守閣を旧大本営跡の南西側から北東を撮影(爆心地から980メートル)=現広島市中区基町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島城主任学芸員・玉置和弘氏の検証による
    (19)倒壊した広島城天守閣を旧大本営跡の南西側から北東を撮影(爆心地から980メートル)=現広島市中区基町で1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島城主任学芸員・玉置和弘氏の検証による 記事本文を読む
  • (19)原爆で焼失した広島城の天守閣は1958年に再建された=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (19)原爆で焼失した広島城の天守閣は1958年に再建された=広島市中区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 焼け野原に残った煙突=撮影場所は判明せず1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    焼け野原に残った煙突=撮影場所は判明せず1945年9月11日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (20)広島第一陸軍病院宇品分院で患者を診察するマンハッタン管区調査団のジョン・フリック軍医大尉(眼科医)と思われる=広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (20)広島第一陸軍病院宇品分院で患者を診察するマンハッタン管区調査団のジョン・フリック軍医大尉(眼科医)と思われる=広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
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    (20)広島第一陸軍病院宇品分院で患者を診察するマンハッタン管区調査団のジョン・フリック軍医大尉(眼科医)と思われる=、広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (20)広島第一陸軍病院宇品分院でのマンハッタン管区調査団・軍医らの討議。中央奥の男性は、スタフォード・ウォレン軍医大佐=広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (20)広島第一陸軍病院宇品分院でのマンハッタン管区調査団・軍医らの討議。中央奥の男性は、スタフォード・ウォレン軍医大佐=広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (20)広島第一陸軍病院宇品分院で原子爆弾症患者の調査をするジョン・フリック軍医大尉(眼科医)と東京帝国大学の都築正男博士=広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (20)広島第一陸軍病院宇品分院で原子爆弾症患者の調査をするジョン・フリック軍医大尉(眼科医)と東京帝国大学の都築正男博士=広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (20)広島第一陸軍病院宇品分院で顕微鏡をのぞくアメリカ陸軍調査団のスタフォード・ウォレン軍医大佐。左に立つのはアメリカ太平洋軍顧問軍医アシュレイ・オーターソン=広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (20)広島第一陸軍病院宇品分院で顕微鏡をのぞくアメリカ陸軍調査団のスタフォード・ウォレン軍医大佐。左に立つのはアメリカ太平洋軍顧問軍医アシュレイ・オーターソン=広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (20)広島第一陸軍病院宇品分院で顕微鏡をのぞくマンハッタン管区調査団の軍医=広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (20)広島第一陸軍病院宇品分院で顕微鏡をのぞくマンハッタン管区調査団の軍医=広島市宇品町(現広島市南区宇品東5)で1945年9月10日前後、山上圓太郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (20)広島第一陸軍病院宇品分院跡に建つマツダ宇品工場=広島市南区で2017年6月8日、山田尚弘撮影
    (20)広島第一陸軍病院宇品分院跡に建つマツダ宇品工場=広島市南区で2017年6月8日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • (21)大野陸軍病院で患者を診察する米国マンハッタン管区調査団。後列左端がアメリカ太平洋軍顧問軍医アシュレイ・オーターソン、中央が東京帝国大学の都築正男博士=広島県佐伯郡大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (21)大野陸軍病院で患者を診察する米国マンハッタン管区調査団。後列左端がアメリカ太平洋軍顧問軍医アシュレイ・オーターソン、中央が東京帝国大学の都築正男博士=広島県佐伯郡大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (21)大野陸軍病院で東京帝国大学の都築正男博士の説明を聞くマンハッタン管区調査団(後方)。右がスタフォード・ウォレン軍医大佐=広島県佐伯郡大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (21)大野陸軍病院で東京帝国大学の都築正男博士の説明を聞くマンハッタン管区調査団(後方)。右がスタフォード・ウォレン軍医大佐=広島県佐伯郡大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (21)大野陸軍病院で患者を診察するマンハッタン管区調査団と東京帝国大学の都築正男博士。後列左端がアメリカ太平洋軍顧問軍医アシュレイ・オーターソン、患者と話をするのが都築博士=広島県佐伯郡大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (21)大野陸軍病院で患者を診察するマンハッタン管区調査団と東京帝国大学の都築正男博士。後列左端がアメリカ太平洋軍顧問軍医アシュレイ・オーターソン、患者と話をするのが都築博士=広島県佐伯郡大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (21)大野陸軍病院で、原爆犠牲者の解剖所見をアメリカ陸軍調査団員らに話す京都大学研究員=広島県佐伯郡大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による
    (21)大野陸軍病院で、原爆犠牲者の解剖所見をアメリカ陸軍調査団員らに話す京都大学研究員=広島県佐伯郡大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影 ※広島平和記念資料館(広島原爆資料館)の検証による 記事本文を読む
  • (21)被爆1カ月後に米軍調査団が視察した大野陸軍病院は、枕崎台風で壊滅し多数の死傷者を出した。今はその犠牲者を悼む供養塔が建つ=広島県廿日市市で2017年6月16日、山田尚弘撮影
    (21)被爆1カ月後に米軍調査団が視察した大野陸軍病院は、枕崎台風で壊滅し多数の死傷者を出した。今はその犠牲者を悼む供養塔が建つ=広島県廿日市市で2017年6月16日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 米軍調査団の動向を伝える1945年9月11日付の毎日新聞大阪本社版の記事。惨劇を目の当たりにして、メンバーが「もうこんなものは使ふべきではない」という感想を述べたと記されている
    米軍調査団の動向を伝える1945年9月11日付の毎日新聞大阪本社版の記事。惨劇を目の当たりにして、メンバーが「もうこんなものは使ふべきではない」という感想を述べたと記されている 記事本文を読む

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