広島原爆アーカイブ

原爆投下から半年後と1年後 市民を捉えた25枚

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  • 被爆から1年の広島駅舎屋上から南東を撮影(上下2枚つなぎ)。たくさんの人が電車を利用している。画面左端中央の地面が掘り返された部分は、かつて広島駅電停(終点)に向かった線路がはがされた跡。線路は途中でカーブし北方向・駅の正面まで延伸し、広島駅電停(終点)が移設された。南から走ってくる電車は、江波終点付近で被爆(1946年3月復旧)した156号。現在も江波車庫に保存されている。画面左は、中国配電本店前付近で被爆し、現在も「被爆電車」として活躍している651号(1946年3月復旧)。その右隣は、御幸橋付近で被爆した207号(1945年11月復旧)。右から2両目は、資材などを運ぶための無蓋電車の102号。正面は黄金山=広島市松原町(現広島市南区)で1946年7月24日ごろ
    被爆から1年の広島駅舎屋上から南東を撮影(上下2枚つなぎ)。たくさんの人が電車を利用している。画面左端中央の地面が掘り返された部分は、かつて広島駅電停(終点)に向かった線路がはがされた跡。線路は途中でカーブし北方向・駅の正面まで延伸し、広島駅電停(終点)が移設された。南から走ってくる電車は、江波終点付近で被爆(1946年3月復旧)した156号。現在も江波車庫に保存されている。画面左は、中国配電本店前付近で被爆し、現在も「被爆電車」として活躍している651号(1946年3月復旧)。その右隣は、御幸橋付近で被爆した207号(1945年11月復旧)。右から2両目は、資材などを運ぶための無蓋電車の102号。正面は黄金山=広島市松原町(現広島市南区)で1946年7月24日ごろ 記事本文を読む
  • 被爆から半年の広島駅前広場南側に広がる露店の闇市。1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から、駅前から南側・松原町下の段に移転した。左奥から、住友銀行東松原支店、比治山、猿猴橋、旧新見商店など=広島市松原町(現広島市南区)の広島駅駅舎の屋上から南に向かって撮影1946年2月8日ごろ
    被爆から半年の広島駅前広場南側に広がる露店の闇市。1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から、駅前から南側・松原町下の段に移転した。左奥から、住友銀行東松原支店、比治山、猿猴橋、旧新見商店など=広島市松原町(現広島市南区)の広島駅駅舎の屋上から南に向かって撮影1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • 被爆から1年の広島駅駅舎の屋上から南に向かって撮影(3枚つなぎ)。写真中央の更地となっている場所(松原町下の段)を中心に広がっていた露店の闇市は立ち退きが実施され、1946年7月5日に移転が完了。新たに広島郵便局(広島管理部)前広場に木造平屋で460余店を収容する民衆マーケットを建設し、9日に開設式があった画面奥左側から、広島市信用組合猿猴橋支所、住友銀行東松原支店、比治山、猿猴橋、旧新見商店、鉄道病院ボイラー棟、広島東警察署、中国新聞社、福屋新館など。画面左側中央に電車1両(650形のおそらく652号)と線路の工事をしている様子が見える。建築資材を運ぶトロッコがあり、近くに敷石が立てて並べてある。上下線ともプラットフォームができており、車両の左側にはクロスの渡線も。その後ろ手の通りには、「小金寿司」、「朝日書房」、映画(「カサブランカ」1946年6月20日日本公開)、「氷」などの看板がみえる。中央の通り沿いには「日本通運株式会社サービスステーション」「民衆マーケット」「華蓬亭」などの看板が見える=広島市松原町(現広島市南区)で1945年7月24日ごろ
    被爆から1年の広島駅駅舎の屋上から南に向かって撮影(3枚つなぎ)。写真中央の更地となっている場所(松原町下の段)を中心に広がっていた露店の闇市は立ち退きが実施され、1946年7月5日に移転が完了。新たに広島郵便局(広島管理部)前広場に木造平屋で460余店を収容する民衆マーケットを建設し、9日に開設式があった画面奥左側から、広島市信用組合猿猴橋支所、住友銀行東松原支店、比治山、猿猴橋、旧新見商店、鉄道病院ボイラー棟、広島東警察署、中国新聞社、福屋新館など。画面左側中央に電車1両(650形のおそらく652号)と線路の工事をしている様子が見える。建築資材を運ぶトロッコがあり、近くに敷石が立てて並べてある。上下線ともプラットフォームができており、車両の左側にはクロスの渡線も。その後ろ手の通りには、「小金寿司」、「朝日書房」、映画(「カサブランカ」1946年6月20日日本公開)、「氷」などの看板がみえる。中央の通り沿いには「日本通運株式会社サービスステーション」「民衆マーケット」「華蓬亭」などの看板が見える=広島市松原町(現広島市南区)で1945年7月24日ごろ 記事本文を読む
  • JR広島駅の屋上から南を望む。南口駅前は再開発で高層ビルが建ち並ぶようになった=広島市南区で2017年12月15日、山田尚弘撮影
    JR広島駅の屋上から南を望む。南口駅前は再開発で高層ビルが建ち並ぶようになった=広島市南区で2017年12月15日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • JR広島駅の屋上から南東を望む。再開発で高層ビルが建ち並ぶ南口駅前を路面電車がゆく=広島市南区で2017年12月14日、山田尚弘撮影
    JR広島駅の屋上から南東を望む。再開発で高層ビルが建ち並ぶ南口駅前を路面電車がゆく=広島市南区で2017年12月14日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆半年の広島駅南側、広島駅電停近くの露店。たくさんの人が集まっている=広島市松原町から猿猴橋町にかけて(現広島市南区)撮影1946年2月8日ごろ
    被爆半年の広島駅南側、広島駅電停近くの露店。たくさんの人が集まっている=広島市松原町から猿猴橋町にかけて(現広島市南区)撮影1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • JR広島駅南口。平和都市・ヒロシマの玄関口として多くの人々が利用する=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影
    JR広島駅南口。平和都市・ヒロシマの玄関口として多くの人々が利用する=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から半年の広島駅前。駅舎は、被爆により正面に取り付けられていた張り出し2階の待合室と出札室(1943年4月完成)が倒壊し、えぐられたような跡が残っていたが、正面の装飾、窓枠等が修繕され、ひさし等も取り付けられている。屋根にはスピーカーのような装置が整備されている。1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から露店の闇市が南側に移動し、駅前がすっきりした。右手前は乗り合いバスに乗り込む人々。広島駅の本格的な復興は1949年から始まる=広島市松原町(現広島市南区)で1946年2月8日ごろ
    被爆から半年の広島駅前。駅舎は、被爆により正面に取り付けられていた張り出し2階の待合室と出札室(1943年4月完成)が倒壊し、えぐられたような跡が残っていたが、正面の装飾、窓枠等が修繕され、ひさし等も取り付けられている。屋根にはスピーカーのような装置が整備されている。1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から露店の闇市が南側に移動し、駅前がすっきりした。右手前は乗り合いバスに乗り込む人々。広島駅の本格的な復興は1949年から始まる=広島市松原町(現広島市南区)で1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • JR広島駅南口。平和都市・ヒロシマの玄関口として多くの人々が利用する=広島市南区で2017年12月14日、山田尚弘撮影
    JR広島駅南口。平和都市・ヒロシマの玄関口として多くの人々が利用する=広島市南区で2017年12月14日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から1年の広島で電車に乗り込むたくさんの人々。手前は千田車庫で被爆した154号(1945年12月復旧)、その後ろは己斐車庫で被爆した204号(1945年11月復旧)。画面中央の地面が掘り返されている部分は、線路が一部はがされた跡。かつての終点へ向かう線路が一部はがされ、向かって左にカーブし、北方向の広島駅正面までレールが延伸され、画面左端の架線用電柱の手前に終点が移設された。2両見える電車は、左が千田車庫で被爆した160号(1945年12月復旧)、右が江波終点付近で被爆した139号と思われる。歩道の木には「広島駅前食堂」の看板が見え、その横の店は「手荷物自転車一時預所」。広島駅正面には「廣島驛HIROSHIMA STATION」の看板が掲げられ、その左手の建物には「JAPAN TRAVEL BUREAU」の看板が見える=広島市松原町(現広島市南区)で1945年7月24日ごろ
    被爆から1年の広島で電車に乗り込むたくさんの人々。手前は千田車庫で被爆した154号(1945年12月復旧)、その後ろは己斐車庫で被爆した204号(1945年11月復旧)。画面中央の地面が掘り返されている部分は、線路が一部はがされた跡。かつての終点へ向かう線路が一部はがされ、向かって左にカーブし、北方向の広島駅正面までレールが延伸され、画面左端の架線用電柱の手前に終点が移設された。2両見える電車は、左が千田車庫で被爆した160号(1945年12月復旧)、右が江波終点付近で被爆した139号と思われる。歩道の木には「広島駅前食堂」の看板が見え、その横の店は「手荷物自転車一時預所」。広島駅正面には「廣島驛HIROSHIMA STATION」の看板が掲げられ、その左手の建物には「JAPAN TRAVEL BUREAU」の看板が見える=広島市松原町(現広島市南区)で1945年7月24日ごろ 記事本文を読む
  • 被爆から半年の広島駅前の闇市。1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から、駅前広場に面した松原町下の段に移転した。露店に集まる人々と、広島駅舎右手には電停に並ぶ人々の列も見える。電車は、宇品終点付近で被爆し、1945年8月に復旧した650形652号の可能性が高い=広島市猿猴橋町(現広島市南区)の広島市信用組合猿猴橋支所から北西・広島駅方向に向かって撮影1946年2月8日ごろ
    被爆から半年の広島駅前の闇市。1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から、駅前広場に面した松原町下の段に移転した。露店に集まる人々と、広島駅舎右手には電停に並ぶ人々の列も見える。電車は、宇品終点付近で被爆し、1945年8月に復旧した650形652号の可能性が高い=広島市猿猴橋町(現広島市南区)の広島市信用組合猿猴橋支所から北西・広島駅方向に向かって撮影1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • JR広島駅の南東側。高層ビルがそびえるなかを路面電車がゆく=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影
    JR広島駅の南東側。高層ビルがそびえるなかを路面電車がゆく=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から半年の広島駅前広場に面した松原町下の段に広がる闇市。1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から、駅前から南側に移転した。画面右上の広島駅電停にもたくさんの人々が並んでいる。電車は650形電車と思われる。広島駅舎左手の建物には、「JAPAN TRAVEL BUREAU」の看板=広島市猿猴橋町(現広島市南区)の住友銀行東松原支店から北の広島駅方向に向かって撮影1946年2月8日ごろ
    被爆から半年の広島駅前広場に面した松原町下の段に広がる闇市。1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から、駅前から南側に移転した。画面右上の広島駅電停にもたくさんの人々が並んでいる。電車は650形電車と思われる。広島駅舎左手の建物には、「JAPAN TRAVEL BUREAU」の看板=広島市猿猴橋町(現広島市南区)の住友銀行東松原支店から北の広島駅方向に向かって撮影1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • 被爆から半年の広島駅前広場南側に広がる露店の闇市。駅前闇市は、1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から、駅前から南側・松原町下の段に移転した=広島市猿猴橋町(現広島市南区)の住友銀行東松原支店から北に向かって撮影1946年2月8日ごろ
    被爆から半年の広島駅前広場南側に広がる露店の闇市。駅前闇市は、1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から、駅前から南側・松原町下の段に移転した=広島市猿猴橋町(現広島市南区)の住友銀行東松原支店から北に向かって撮影1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • JR広島駅の南東側。高層ビルがそびえる=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影
    JR広島駅の南東側。高層ビルがそびえる=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から1年の広島市内。中央の荒神橋には人だかりができている。下流は1945年9月の枕崎台風で西側の橋桁が流失したままの大正橋。右手には比治山が見える=広島市猿猴橋町(現広島市南区)の猿猴橋東・住友銀行東松原支店から南を撮影1945年7月24日ごろ
    被爆から1年の広島市内。中央の荒神橋には人だかりができている。下流は1945年9月の枕崎台風で西側の橋桁が流失したままの大正橋。右手には比治山が見える=広島市猿猴橋町(現広島市南区)の猿猴橋東・住友銀行東松原支店から南を撮影1945年7月24日ごろ 記事本文を読む
  • 猿猴川に架かる荒神橋は被爆橋梁でも知られる=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影
    猿猴川に架かる荒神橋は被爆橋梁でも知られる=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から1年の広島・京橋付近の住宅の家庭菜園。深刻な食糧難の中、一坪菜園をする家庭が多く見られた。画面中央に「Hiroshima Bazaar Bargain Sale」という看板(京橋通りではないかと思われる)=広島市京橋町(現広島市南区)で1946年7月24日ごろ
    被爆から1年の広島・京橋付近の住宅の家庭菜園。深刻な食糧難の中、一坪菜園をする家庭が多く見られた。画面中央に「Hiroshima Bazaar Bargain Sale」という看板(京橋通りではないかと思われる)=広島市京橋町(現広島市南区)で1946年7月24日ごろ 記事本文を読む
  • 寺社や旅館が多い京橋町。西の京橋が架かり、東に広島駅を望む=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影
    寺社や旅館が多い京橋町。西の京橋が架かり、東に広島駅を望む=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から半年の広島。建設が進む住宅では古い資材を再利用しているのが分かる。奥に見えるのは中国新聞社本館・新館、福屋新館など=広島市幟町(現広島市中区)で幟町付近から南西に向かって撮影1946年2月8日ごろ
    被爆から半年の広島。建設が進む住宅では古い資材を再利用しているのが分かる。奥に見えるのは中国新聞社本館・新館、福屋新館など=広島市幟町(現広島市中区)で幟町付近から南西に向かって撮影1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • ホテルやマンションが並ぶ幟町かいわい。相生通りから1本北の道に入っただけで、かつてランドマークだった中国新聞(現三越)は見えなくなる=広島市中区で2017年12月3日、山田尚弘撮影
    ホテルやマンションが並ぶ幟町かいわい。相生通りから1本北の道に入っただけで、かつてランドマークだった中国新聞(現三越)は見えなくなる=広島市中区で2017年12月3日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から1年の広島市内の菜園でのカボチャの収穫。深刻な食糧危機に対し、広島県・広島市などは、焼跡を利用したカボチャ、ナス、トマトなどの栽培を呼びかけ、苗の配分やカボチャの品評会を開催した。画面中央奥に中国新聞社新館、広島流川教会。左端は再建された幟町小学校の校舎(1946年7月15日竣工)と思われる=広島市上流川町(現広島市中区鉄砲町)で1946年7月24日ごろ
    被爆から1年の広島市内の菜園でのカボチャの収穫。深刻な食糧危機に対し、広島県・広島市などは、焼跡を利用したカボチャ、ナス、トマトなどの栽培を呼びかけ、苗の配分やカボチャの品評会を開催した。画面中央奥に中国新聞社新館、広島流川教会。左端は再建された幟町小学校の校舎(1946年7月15日竣工)と思われる=広島市上流川町(現広島市中区鉄砲町)で1946年7月24日ごろ 記事本文を読む
  • 被爆から1年の広島。福屋屋上では花柳舞踊研究生による広島復興小唄の舞踊練習が行われていた。背後は、爆心地相生橋方面。バラックが建ちはじめている。隣の建物は、商工組合中央金庫広島支所。画面奥左から住友銀行広島支店、芸備銀行本店、千代田生命広島支社、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)、日本赤十字社広島支部、広島県商工経済会。路面を走る電車の姿も見える=広島市胡町(現広島市中区)で1946年7月24日ごろ
    被爆から1年の広島。福屋屋上では花柳舞踊研究生による広島復興小唄の舞踊練習が行われていた。背後は、爆心地相生橋方面。バラックが建ちはじめている。隣の建物は、商工組合中央金庫広島支所。画面奥左から住友銀行広島支店、芸備銀行本店、千代田生命広島支社、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)、日本赤十字社広島支部、広島県商工経済会。路面を走る電車の姿も見える=広島市胡町(現広島市中区)で1946年7月24日ごろ 記事本文を読む
  • 被爆建物でもある福屋百貨店の周辺から西を望む。ビルが建ち並び、原爆ドームは見えない=広島市中区で2017年12月3日、山田尚弘撮影
    被爆建物でもある福屋百貨店の周辺から西を望む。ビルが建ち並び、原爆ドームは見えない=広島市中区で2017年12月3日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から1年の広島市内で建設が進むバラック。「更科第三支店」や「旅館」などの看板を出しているものがある。左から千代田生命広島支社、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)、本川小学校、日本赤十字社広島支部、広島県商工経済会など。紙屋町交差点には電停が見え、南や東に向かう電車の姿が確認できる。中央左寄りに建築資材等を運ぶための仮設レールとトロッコが見える=広島市東魚屋町(現広島市中区立町)の商工組合中央金庫広島支所屋上から西に向かって撮影1946年7月24日ごろ
    被爆から1年の広島市内で建設が進むバラック。「更科第三支店」や「旅館」などの看板を出しているものがある。左から千代田生命広島支社、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)、本川小学校、日本赤十字社広島支部、広島県商工経済会など。紙屋町交差点には電停が見え、南や東に向かう電車の姿が確認できる。中央左寄りに建築資材等を運ぶための仮設レールとトロッコが見える=広島市東魚屋町(現広島市中区立町)の商工組合中央金庫広島支所屋上から西に向かって撮影1946年7月24日ごろ 記事本文を読む
  • 商工組合中央金庫広島支所の跡地には山陰合同銀行広島支店が入る。周辺にはビルが建ち並び、原爆ドームは見えない=広島市中区で2017年12月3日、山田尚弘撮影
    商工組合中央金庫広島支所の跡地には山陰合同銀行広島支店が入る。周辺にはビルが建ち並び、原爆ドームは見えない=広島市中区で2017年12月3日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から半年の広島。紙屋町電停に止まっているのは、福島橋手前で被爆した400形413号(1945年11月復旧)で、「己斐」行きの表示が出ている。交差点の中心には戦前・戦中にもあった電車信号所の建物が簡易な形で再建され、有人でポイントの切り替えなどをしている。画面奥に福屋旧館と新館が見える。右端の電車は、401号、402号、417号以外の400形=広島市紙屋町(現広島市中区)の紙屋町交差点から東に向かって撮影1946年2月8日ごろ
    被爆から半年の広島。紙屋町電停に止まっているのは、福島橋手前で被爆した400形413号(1945年11月復旧)で、「己斐」行きの表示が出ている。交差点の中心には戦前・戦中にもあった電車信号所の建物が簡易な形で再建され、有人でポイントの切り替えなどをしている。画面奥に福屋旧館と新館が見える。右端の電車は、401号、402号、417号以外の400形=広島市紙屋町(現広島市中区)の紙屋町交差点から東に向かって撮影1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • 被爆から半年の広島。右端の電車は、江波終点付近で被爆した150形156号(1946年3月に復旧。現在も江波車庫に保存されている)。その隣も150形電車と思われる。画面奥右から千代田生命広島支社、農林組合中央金庫、三井物産広島支店など=広島市紙屋町(現広島市中区)の紙屋町交差点から南西を撮影1946年2月8日ごろ
    被爆から半年の広島。右端の電車は、江波終点付近で被爆した150形156号(1946年3月に復旧。現在も江波車庫に保存されている)。その隣も150形電車と思われる。画面奥右から千代田生命広島支社、農林組合中央金庫、三井物産広島支店など=広島市紙屋町(現広島市中区)の紙屋町交差点から南西を撮影1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • 紙屋町交差点から南西を望む。電車通りは戦後拡幅された=広島市中区で2017年12月3日、山田尚弘撮影
    紙屋町交差点から南西を望む。電車通りは戦後拡幅された=広島市中区で2017年12月3日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から半年。広島城本丸西側輜重兵補充隊(輜重兵第5連隊)跡に建設が進む簡易住宅(住宅営団の越冬住宅)。罹災者のための公的な住宅建設が計画されたが、資材不足で実現は困難を極めた=広島市基町(現広島市中区)で1946年2月8日ごろ
    被爆から半年。広島城本丸西側輜重兵補充隊(輜重兵第5連隊)跡に建設が進む簡易住宅(住宅営団の越冬住宅)。罹災者のための公的な住宅建設が計画されたが、資材不足で実現は困難を極めた=広島市基町(現広島市中区)で1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • 被爆から半年の広島。広島城本丸西側輜重兵補充隊(輜重兵第5連隊)跡に建設が進む簡易住宅(住宅営団の越冬住宅)。手前右側に見えるのは、ボイラーと高射砲の残骸か。住宅の奥には、小姓町需品倉庫の焼け残った防火壁が見える。罹災者のための公的な住宅建設が計画されたが、資材不足で実現は困難を極めた=広島市基町(現広島市中区)で1946年2月8日ごろ
    被爆から半年の広島。広島城本丸西側輜重兵補充隊(輜重兵第5連隊)跡に建設が進む簡易住宅(住宅営団の越冬住宅)。手前右側に見えるのは、ボイラーと高射砲の残骸か。住宅の奥には、小姓町需品倉庫の焼け残った防火壁が見える。罹災者のための公的な住宅建設が計画されたが、資材不足で実現は困難を極めた=広島市基町(現広島市中区)で1946年2月8日ごろ 記事本文を読む
  • 被爆から1年の広島・基町に建設された簡易住宅(2枚つなぎ)。手前は住宅営団の簡易住宅。左奥は十軒長屋の市営住宅。住宅不足のため焼けトタンで雨露をしのいでいた市民は、完成を待たずに入居したという。南東に向かって。右奥から原爆ドーム、広島県商工経済会、中国配電本店、広島瓦斯本社、広島護国神社参道入口鳥居、千代田生命、住友銀行、芸備銀行本店、福屋新館・旧館、中国新聞社など。住宅横の道を歩く母娘と思われる3人が写る=広島市基町(現広島市中区)の広島城本丸西側本川側(輜重兵補充隊)跡付近で1946年7月24日ごろ
    被爆から1年の広島・基町に建設された簡易住宅(2枚つなぎ)。手前は住宅営団の簡易住宅。左奥は十軒長屋の市営住宅。住宅不足のため焼けトタンで雨露をしのいでいた市民は、完成を待たずに入居したという。南東に向かって。右奥から原爆ドーム、広島県商工経済会、中国配電本店、広島瓦斯本社、広島護国神社参道入口鳥居、千代田生命、住友銀行、芸備銀行本店、福屋新館・旧館、中国新聞社など。住宅横の道を歩く母娘と思われる3人が写る=広島市基町(現広島市中区)の広島城本丸西側本川側(輜重兵補充隊)跡付近で1946年7月24日ごろ 記事本文を読む
  • 戦後に簡易住宅が建ち並んだ基町は、その後建設されたアパートの取り壊しが始まった=広島市中区で2017年12月5日、山田尚弘撮影
    戦後に簡易住宅が建ち並んだ基町は、その後建設されたアパートの取り壊しが始まった=広島市中区で2017年12月5日、山田尚弘撮影 記事本文を読む
  • 被爆から1年の広島・中島地区の慈仙寺の鼻に建築中の戦災供養礼拝堂。「復興事業に取り掛かる前に犠牲者の供養を」という市民からの強い申し入れを受け、広島市は爆心地への供養塔建設と市内の遺骨収集を計画。左側の広島市戦災死没者供養塔は、1946年5月26日に完成。祈りを捧げる女性と子どもたちが見える。礼拝堂は、8月5日に完成し、6日には戦災死没者1周年追悼会が執行され、数千人の市民が参列した。画面奥左から広島県商工経済会、原爆ドーム、「廣島市戦災死没者供養塔建・・・」と書かれた柱が立っている=広島市中島本町(現広島市中区中島町)で1946年7月24日ごろ
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  • 平和記念公園内にある原爆供養塔は1950年に現在の形になった。今も犠牲者が眠る=広島市中区で2017年12月15日、山田尚弘撮影
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