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駆け抜けた1世紀

センバツ90/3 第43回大会(1971年) 普天間 占領下、本土に初勝利

1971年の第43回大会1回戦で弘前を破り、抱き合って喜ぶ普天間ナイン

 <2018 第90回記念選抜高校野球>

     どうせ本土のチームには勝てない--。1971年の第43回大会に出場した沖縄・普天間高の元監督、与那嶺誠一さん(72)は、地元の高校球界に漂うそんな空気がどうしても許せなかった。

     確かに沖縄勢は60年の初出場以降、6回の挑戦で1勝もしていなかった。だが、球児らが社会に出た時、自分で勝手に限界を決めてほしくない--。与那嶺さんが選手にかけ続けた言葉が「ヤマトンチュ(本土の人)に負けるな」だった。

    普天間の中堅手だった米須清徳さん(左)と元監督の与那嶺誠一さん=沖縄県西原町で2017年12月8日、青木純撮影

     当時、沖縄は米軍統治下。本土はパスポートを持ち予防接種をしないと行けない「外国」。練習試合は沖縄のチームとばかりで、本土では当たり前の指導法やトレーニング、戦術などもほとんど入ってこなかった。普天間の中堅手だった米須(こめす)清徳さん(64)は「本土はとにかく遠かった。そこでプレーできるだけでうれしかった」と振り返る。

     施設整備も本土に比べて遅れていた。甲子園に出場する本土の学校なら、専用グラウンドを持ち、用具もそろっているのが当たり前。ところが、普天間が隣の小学校と共用するグラウンドは陸上競技用で、練習前に総出でバケツ1杯分の小石を拾うのが日課だった。古くなった用具も使い続け、ボールは自分たちで縫い直した。

     そんな環境の中でも、選手たちは愚痴一つこぼさず白球を追い続けた。米須さんは1年365日、練習を休んだ記憶がない。「よくあんな所で練習していたと思う。だけど、確実に力がついた。それが本当に面白かった」

     大会第3日の3月29日、弘前(青森)との初戦。生まれて初めて見る巨大な客席やじゅうたんのような外野の芝生にナインは硬くなった。しかも、普天間の平均身長は170センチ未満で弘前との体格差は歴然。だが、でこぼこのグラウンドで培った堅守、バントを駆使した機動力で乗り越えようとする姿に、観客は「普天間頑張れ!」と声援を送り続けた。

     2-2の同点で迎えた九回裏、1死満塁。米須さんが外角高めの球を振り抜くと、バント警戒で前進していたショートの左側を抜け、三塁走者が生還。センバツ史上初の沖縄勢勝利だった。2回戦は、大会を制する日大三(東京)に最後まで食らいつき6-7。日大三から点を奪った大会唯一のチームとなった。

     与那嶺さんは言う。「厳しい境遇でも頑張れば何とかなる。それを証明できた」。沖縄は翌年5月15日、日本に返還される。本土の球児との交流は盛んになり、やがて沖縄勢がセンバツを席巻するようになる。普天間の健闘は、沖縄と本土の分断を乗り越えようとする人たちへの大きな「贈り物」となった。=つづく


     ▽1回戦

    弘前  100000001=2

    普天間 020000001=3

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