メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

次代への伝言

戦後初の甲子園 センバツ90/1 GHQが開催に難色

 <第90回記念選抜高校野球>

     戦後初めて甲子園で開かれたのは、1947年の第19回全国選抜中学野球大会だった。再開に当たっては大会存続の危機にも直面したが、その際に絞り出した知恵や野球振興への思いは、現在のセンバツの礎となっている。90回目を迎える大会を前に、センバツの転換期となった時代を関係者の証言や資料などから振り返り、高校野球のあり方を考える。【安田光高】

     1947年3月5日、毎日新聞東京本社の三宅俊夫・体育部長は東京・内幸町にある連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)へ向かっていた。揺れ動く胸中を表すように足取りは速くなっていた。「選抜大会は中止」。文部省(当時)からの突然の通告は、戦後初の甲子園大会開幕まで1カ月を切った段階で届いた。

     夏の大会は前年に復活したが、球場は兵庫・西宮だった。戦争を挟み、春夏通じて6年ぶりとなる甲子園での開催は、敗戦に沈む日本国民にとって久しぶりの明るい話題の一つだった。しかし、球児の聖地での大会開催を伝える主催の毎日新聞の記事に、CIEが難色を示した。

     戦前の学生野球は一部のエリートが学業をおろそかにして一年中、試合を行っていた。各地で学校などが独自に大会を行って多大な収入を得ていることなども問題になり、国が統制する事態にまで発展した。

     CIEはスポーツを誰もができるよう民主化、大衆化を進めようとした。それを受け、文部省は46年10月に課外活動のあり方をまとめた。選手選考にあたっては技量のみでなく、学業の成績などを重視し、競技ごとに実施期間を限定するシーズン制の実施や対外試合は近隣の都道府県にとどめるなどとした。

     その矢先の甲子園大会の開催を、CIEは看過できなかった。担当官のノーヴィル少佐が文部省に「この行事は日本体育の将来の方向にまったく反する」と強い口調で注意したという当時の記録を、立命大産業社会学部元教授の草深直臣氏(72)は後年、国会図書館内の資料から見つけた。「CIEは交流戦やリーグ戦などを行って地方に野球を充実させることを重視し、全国大会は年1回でいいと考えていた」と草深さんは説明する。

     当時、文部省体育課の職員だった江橋慎四郎氏(97)も「CIEは文部省がやることに細かく口を出してこなかったが、選抜だけは強くこだわっていた」と回顧する。

     ノーヴィル少佐の厳しい態度に三宅部長は困惑した。それでも、CIEのシーズン制の理念に賛同した上で、「今年だけは開催を許可してほしい」と懇願した。甲子園でのプレーに胸をふるわせている出場校の球児たちのため、野球を見る喜びにあふれているファンのために、引き下がるわけにはいかなかった。=つづく

    おすすめ記事
    広告
    毎日新聞のアカウント
    ピックアップ
    話題の記事

    アクセスランキング

    毎時01分更新

    1. 東芝子会社で架空取引 200億円規模 グループ外企業と循環取引か

    2. 本能寺の変4日後 明智光秀直筆の文書、初公開 19日、1日限定 滋賀・多賀

    3. ど迫力!金色の巨大ホワイトタイガー 埼玉・東武動物公園駅前 リアルわらアート

    4. 「たけちんの続編、見たかった」 京アニ放火殺人半年 「らき☆すた」監督の友人悼む

    5. 「ニセモン」? これってアリ? 中国版ポケモンGOを現地でプレーしてみた

    のマークについて

    今週のおすすめ
    毎日新聞社は、東京2020大会のオフィシャルパートナーです