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次代への伝言

戦後初の甲子園 センバツ90/2 選手登録書に学力

第19回大会の和歌山・海草中(現向陽高)の出場選手登録書。「学力」の欄には「上」「中」と記されている=日本高野連提供

 <第90回記念選抜高校野球>

     学力「中」、健康状態「良」。

     戦後初の甲子園大会となった1947年の第19回全国選抜中学野球大会の出場選手登録書には、名前や年齢、学年のほかに、各選手の学力と健康状態を書き込む項目がある。身長、体重の欄はない。日本高校野球連盟(大阪市)に保管されている登録書がとじられた冊子「選抜野球選手名」には戦後、再開に難航したセンバツの「産物」がうかがえる。

     47年3月初旬、毎日新聞と連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)との議論は平行線をたどっていた。すでに3月30日開幕と告知されていたセンバツの再開に反対するCIEに対し、主催する毎日新聞社の三宅俊夫・東京本社体育部長は、楽しみにしているファンの期待などを訴えた。間に入った文部省(当時)も「荒廃した世情を落ち着かせるためにも必要」と援護したが、CIE担当官のノーヴィル少佐は首を縦に振らなかった。

     風向きを変えたのはCIEの通訳だった三宅悦子氏の一言。「少佐、あなたがそんなに頑張って大会を中止させたら日本人に一生恨まれますよ」。神戸女学院卒の三宅氏はセンバツのファンだった。この言葉で軟化したノーヴィル氏は「あまり無理は言いたくない。ここまで準備が進み、大会が間近に迫っているので本年限りは認めよう」と折れた。

     CIEは民間企業である新聞社が主催することは教育的に良くないと主張していた。対する毎日新聞も学業をおろそかにしないという理念には賛同した。それを目に見える形で示したのが、出場選手の学業成績の項目だった。

     第19回大会に京都二中(現鳥羽高)の選手として出場した黒田脩氏(88)は、大会諸注意の用紙とともに、46年12月に制定された「学生野球基準要項」を今でも保管している。要項は学生野球の憲法といわれる「学生野球憲章」の原形で、「選手は学校長において学業身体人物等適当と認めたものに限る」などと書かれている。黒田氏は「私が持っているということは参加選手全員に配ったのでは」と話す。

     大会創設当初から実力だけでなく選考に当たっては品位を求めてきたセンバツが、目に見える形で文武両道を打ち出したのが、戦後最初の甲子園大会だった。その理念は形を変え、学業と部活動の両立などを選考基準とする、現在の「21世紀枠」にもつながっている。【安田光高】=つづく

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