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次代への伝言

戦後初の甲子園 センバツ90/3 空腹いつしか消え

第19回センバツ大会の始球式。終戦から1年半、ようやく甲子園に野球が戻った

 <第90回記念選抜高校野球>

     甲子園に近づくほど、空腹感と不信感が募っていった。1947年3月。兵庫・明石中(現明石高)の選手だった高木太三郎さん(86)は第19回全国選抜中学野球大会に向け、明石を出発したトラックの荷台にいた。周りにはチームメートだけでなく、野球道具や鍋、釜、食料。道中、チームメートが言った。「米を取られたりしないかな」。不安が伝染していく。「いつも空腹。野球より食べる方が大事だった」と高木さん。大なり小なり、それが当時の球児の本音だった。

     終戦後、初めて甲子園で開かれた大会。戦争が終わって1年半が過ぎていたが、食料難は続いていた。宿泊する旅館などには米がなく、各校が持参。配給制だった当時、大量の米の持ち込みは、闇米として売買を警戒する警察に取り締まられる恐れがあった。カバンに大量の食料を入れてきた選手が摘発されないよう、毎日新聞の関係者が大阪の曽根崎警察署に陳情に行っていたほどだった。

     明石中の選手らは大会に向けて出発する際、協力し合って食料を集めた。農家出身の選手は野菜を持って来た。自宅でしょうゆの製造をしていた高木さんは、たるいっぱいのしょうゆを用意した。不足したのが米。麦が多く入っていた配給米では足りず「闇市で買ってきた」。西宮への移動はトラック。これも運転手付きで闇市で頼んだため、余計に米を取られてしまうのではという不安が増していた。

     無事に到着したが、宿舎は戦火で一部が焼けたままの寺。食事も野菜と水を入れておじやにして量を増やした。「空腹だから銭湯に入ったら浮いてしまった」と笑う高木さん。甲子園に一度も行ったことがなく、「名前は聞いたことがあるぐらいで憧れはなかった。それよりもおいしい物を食べたかった」と振り返る。

     そんな思いを、甲子園が一変させた。大会前の練習で黒土に踏み入れた足に、未知の感触が宿った。「こんな真っ平らなグラウンドは今までなかった。芋畑で畝ができていた学校や明石球場とは天と地の差」。闇市で手に入れたグラブで二塁でノックを受けると、イレギュラーしないことにまた驚かされた。「これが甲子園か」。今まで持ち続けていた空腹感と不信感は、いつの間にか消えていた。

     いつの時代も、甲子園は球児たちをとりこにしてきた。【安田光高】=つづく

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