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次代への伝言

戦後初の甲子園 センバツ90/4 聖地「奪還」に万歳

戦時中の甲子園の見取り図
進駐軍に接収された時の甲子園の見取り図=いずれも石田恒信氏「甲子園の回想」より

 <第90回記念選抜高校野球>

     甲子園球場は中学野球の全国大会を開くために1924年、誕生した。しかし、戦争が始まると、軍需工場や陸海軍の施設として使われた。内野は食料確保のため芋畑に。当時の甲子園球場長だった石田恒信さんが残した手記「甲子園の回想」にはその様子が克明に記録されている。43年にはスタンドの鉄傘も戦略物資調達として奪われ、終戦直前には空襲に遭い、グラウンドには大量の焼夷(しょうい)弾が突き刺さった。

     ようやく戦争が終わっても、甲子園の苦難は続いた。45年10月、今度は米国の進駐軍によって接収された。多い時で2000人以上の兵士が寝泊まりし、外野ではアメリカンフットボールを行っていた。終戦から1年後の46年8月15日、夏の全国中学優勝大会が再開したが、会場は接収を免れた兵庫県の西宮球場だった。

     阪神電鉄は46年の2月に接収解除の嘆願書を出したが却下されていた。「その年は結局あきらめた」と阪神電鉄の事業部長などを務めた長田陸夫氏は後年、そう振り返った。甲子園でのセンバツ復活にこだわった毎日新聞は、事業部の藤村嘉夫や社会部の大森実らが阪神電鉄と協力しながら、進駐軍の神戸ベースに何度も足を運んだ。

     接収の一部解除が認められたのは47年1月10日。聖地「奪還」の知らせを聞いた球場の職員たちはグラウンドに飛び出し、万歳を繰り返した。その喜びようは毎日新聞も同じだった。23日付で掲載したセンバツ社告にはこうある。「いま終戦後第二の春を迎えて本大会育ての親ともいうべき懐かしい甲子園に復活する選抜大会こそまことに意義深いものがあります」

     その後、連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)から大会のあり方などを理由にセンバツ中止を通告されながらも、協議を重ねて戦後初めての甲子園開催にこぎつけた。

     その日は前夜までの雨が上がり、薄雲の隙間(すきま)から春の日差しがグラウンドに注がれていた。3月30日、第19回全国選抜中学野球大会の開会式。10万人の観衆が集まったと当時の記事にある。毎日新聞の本田親男・大阪本社代表の第一声は「みなさん、あの日の丸をごらんください」。センターポールには進駐軍に許可を得て掲げた日章旗。「スポーツの殿堂として新生日本の建設に役立てたい」と訴え、甲子園とセンバツを取り戻した関係者らは感慨に浸っていた。【安田光高】=つづく

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