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次代への伝言

戦後初の甲子園 センバツ90/5 画期的、選考に地域性

東北から初めて出場校を選んだ1955年の第27回センバツの選考委員会

 <第90回記念選抜高校野球>

     戦後初めて甲子園で行われた第19回全国選抜中学野球大会(1947年)には26校が出場した。その最後に選ばれたのが広島商。地域性が考慮された。それは当時としては画期的なことだった。

     戦前のセンバツの出場選考は実力第一。北海道と東北は寒冷地を理由に原則、対象外となっていた。地域の偏りは考慮されておらず、第10回大会(33年)では和歌山から4校が選出された。

     戦争での中断を経て、46年に夏の全国中学優勝野球大会が兵庫・西宮球場で再開。京都では47年1月、センバツ再開を見越して「中学選抜大会京都銓衡(選考)試合」が開かれた。京都二中(現鳥羽)は準優勝だったが、選手だった黒田脩氏(88)は「負けても本当に実力があれば選ばれるのがセンバツ。子どもながらに出られると思った」という。京都二中は前年夏の準優勝校。実力が重視された当時の風潮を裏付ける。

     第19回センバツの選考委員会は47年2月下旬に開かれた。この時初めて選考に「地区別」という概念が持ち込まれ、東日本▽東海▽北陸▽京津▽紀和▽大阪▽兵庫▽山陰▽山陽▽四国▽九州--の11地区に分けられた。日本高校野球連盟元会長の佐伯達夫氏は後年、「毎年同じような顔触れになると、全国的な高校野球の振興という(選抜大会の)大理想に逆行する」と理由を説明している。

     実際の選考にもその意思は反映された。50校から27校に絞った段階で京都4、和歌山3、九州4に対し、山陽は下関商(山口)の1校しかないことに異論が出た。最終的に京都と九州を1校ずつ減らし、広島商を救済した。選考委総会では「全国大会の特質から考えて今後は地域的な選出校のバランスをとくに必要とする」と確認。新たな指針ができた瞬間だった。

     第20回大会(48年)は「全国大会は1回でいい」と開催に反対する連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)に配慮し、大会名から「全国」を外さざるを得なかった。地域性への配慮は足踏みした。

     それを取り戻したのがサンフランシスコ講和条約が結ばれた翌52年の第24回大会。北海道と東北を関東に組み込んで選考の対象とし、北海道の函館西を選出。さらに3年後、東北から初めて一関一(岩手)が選ばれた。

     第90回大会の今年は初めて東北の基本数が「3」に。71年前の戦後初の選考で生まれた信念は、消えてはいない。【安田光高】=つづく

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