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融合

明秀日立・初のセンバツへ 第3部 希望を集めて/下 野球部躍進、学校に活気 改革実り生徒数増加 /茨城

明秀日立のセンバツ初出場を知らせる号外を見て喜ぶ小野理事長=日立市内で

 「安定した生徒数の確保」「地域から選ばれる学校へ」

     2015年9月に発行された明秀日立高校90周年記念誌「確かな明日へ」を読むと、学校経営の安定のため生徒数確保に苦心してきた様子がうかがえる。「生き残るためではなく理念の具現化のために」との記載がかえって痛々しいほどだ。

     同高は1925年に「助川裁縫女学校」として創立。「日立女子高」を経て、96年に男女共学化した。

     小野勝久理事長(71)は06年6月の就任当初から危機感を抱いた。日立市出身の女性社長が来校した際、小野理事長が出身校を尋ねても、女性社長は「日立市内の高校」と答えるのみ。帰り際にようやく「実はここの出身なんです」と打ち明けた。90周年記念誌の卒業生座談会でも、「正直に申しまして絶対に入りたくない学校でした。ここの高校の制服に袖を通すのも嫌だった」と率直な声が寄せられている。

     ブランド化の失敗は生徒数に表れた。66年度は1531人いた生徒数は、小野理事長就任の06年度には半分以下の727人に落ち込んだ。県北地域は人口の減少も進んでおり、「どうやって生徒を集めようか悩んだ」と振り返る。

     難関大の合格を目指す特進コースの設置、03年に創設した通信制の拡充など、矢継ぎ早に改革を進めた。そして着手したのが野球部の強化だった。

     小野理事長自身は学生時代馬術をしており、野球は門外漢。それでも就任した06年秋の県大会で、常総学院を破って初優勝。甲子園には届かなかったものの、スタンドで観戦して高校野球の持つパワーにみせられ、「いつかは」との思いを抱くようになった。

     そして12年6月、大きな出会いが訪れる。

     青森・光星学院(現八戸学院光星)の監督として春夏8回の甲子園出場を果たした金沢成奉氏(51)が理事長室を訪れた。金沢氏は「野球の技術だけではなく、人として育てなければいけない」と語り、「部員全員が住める寮を確保してほしい」と求めた。

     小野理事長は「分かった」と即座に約束した。金沢氏は「(甲子園出場には)3、4年待ってください」と話したが、小野理事長は「5年でも10年でも待つ」と内心決めていたという。「金沢さんの人間性にひかれた。この人と一緒に目指したいと思った」と語る。13年度に定めたアクションプランには、目標を「甲子園出場」と書き込んだ。

        ◇

     遠く関西からも集まった野球部員たちは今、旧高萩工業高校の跡地を活用した寮「明高館」で暮らし、夜間照明も備えた練習場で修練を重ねる。野球部の躍進は学校全体に活気を与え、生徒数は1000人を超えた。

     初の甲子園を前に、小野理事長は意気込む。「ようやくスタートラインに立てた。今は県外出身者が多いが、いずれ県内の逸材も集まってくる。次のプランには『日本一』と書き込みたい」【川崎健】

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