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第91回選抜高校野球

21世紀枠、古川選ばれず 2年生、夏のチャンスある 元野球部監督・沼倉公さん(81) /宮城

 <第91回センバツ>

     古川高のOBで、同校に体育教諭として勤め、同校野球部の監督や部長を35年間にわたって務めた沼倉公さん(81)=1955年度卒、栗原市=は、同校が21世紀枠に選ばれなかったことを聞き、「まだ(甲子園に行く)チャンスはある」と後輩たちを励ますとともに、指導者として甲子園出場にかけた思い出を語った。【山田研】

     中学2年の時、野球の(旧)栗原郡大会で優勝ピッチャーになりました。ただ、古高では陸上競技をやりました。バス通学だったので、遅い時間までかかる野球の練習ができなかったのです。野球部と同じ校庭で練習したので、1学年上で後にプロ野球に進んだ鈴木(徹)さんや伊藤(春男)さんがプレーしているのを見ましたね。

     好きなスポーツを生かそうと教員になり、千葉の高校に3年間勤めました。そして古高から「来ないか」と誘われ、校長にあいさつに行った時、当時の野球部監督で、ドイツ語の高橋養先生と会い、「俺と一緒に野球やんねえか。校長には話をするから」と声をかけられました。私は大学で野球部に入り、古高と一緒に合宿したこともあったので、お互い知っていました。二つ返事でOKしました。

     63年から98年3月に退職するまで、監督と部長を続けました。部員不足で、新入生が入らず試合にならない時期もありました。地域の素質のある中学生が仙台の私立高に持っていかれ、ずいぶん悔しい思いもしました。中学の県大会でいい成績を残したピッチャーが入学したので誘ったら、「家の人の希望に応えて医学部に進学したい」と入部しなかったことも。入部してきた生徒を育てる以外ないんです。

     生徒たちは自主的にいろいろ考え、練習後にスポーツジムに通ったりもしていました。

     71年夏は東北大会決勝まで進んで磐城高(福島県)と対戦しました(当時は夏の甲子園出場が宮城と福島から1校だった)。相手ピッチャーのシュートはすごかったですねえ。当時、シュートを投げる高校生はあまりいなかったので、食い込んでくる球に凡ゴロを打たされて負けました。(甲子園で準優勝した)磐城高が甲子園で取られたのは決勝戦の1点だけ。その投手から、うちは1点取ったんですよ。

     この年、古高の投手は2枚看板でした。一人は身長が180センチぐらいあり、オーバースローでしたがアンダースローに変えるように言いました。アンダーになって成功したんです。もう一人は、アメリカンフットボールをやるような体格で、すごく肩が強かった。

     磐城高に負けたこの年、視察で初めて甲子園に行きました。各校の応援にすごいなーと感激しましたね。

     82年春も東北大会に進みましたが、1回戦で負けました。投手が1枚だったので県大会の疲れがたまって、持たなかったのです。

     25日、甲子園出場はならなかったと、教え子が連絡してくれました。私が選手を連れて行きたいと願い、退職記念の会では教え子が「監督を連れて行きたかった」と言ってくれた甲子園。けれど、(現在の2年生も)まだ1回チャンスはあります。古高生らしく自分たちで研究して、なんとしても夏には甲子園に行ってもらいたいですね。

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