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父の病死、3時間後の大震災…過酷な3.11乗り越え、甲子園に 果たした父との約束

【海星-聖光学院】ベンチ前で笑顔を見せる聖光学院の赤津翔平記録員=阪神甲子園球場で2019年8月12日、山崎一輝撮影

聖光学院 赤津翔平マネジャー(3年)

 聖光学院(福島)には、斎藤智也監督が「主将と2人でチームをここまで連れてきたと言っても過言ではない」と絶賛する立役者がいる。赤津翔平マネジャー(3年)だ。8年前に父を亡くし、その同じ日に発生した東日本大震災で野球をする環境を奪われ、高校1年の冬にはけがで選手生命を絶たれた。それでも、チームのために尽くせたのは、父が最期に残した言葉があったからだ。「憧れの舞台に来ることができました」。たくましく成長した息子は、甲子園の空を見上げた。

 幼い頃からキャッチボールをしてくれた父幸夫さん(享年59)が肝臓がんで亡くなったのは、2011年3月11日。東日本大震災が起きたのは、その約3時間後だ。福島市の自宅に大きな被害はなかったが、悲しみと混乱で心に深い傷を負った。東京電力福島第1原発事故の影響に対する不安もあり、とても野球ができるような状況ではなくなった。

 それでも、高校野球で活躍したい。県内屈指の強豪校・聖光学院へ入学した。だが1年の冬、入学当初から痛みを我慢し続けていた右肩が悲鳴を上げた。診断結果は関節唇断裂。医師からは「手術をしなければ投げられない」と告げられた。野球ができなくなる現実に打ちひしがれていた時、父が残した最期の言葉が頭をよぎった。

 「人生に悔いはない。でも一つあるとすれば、翔平が高校野球で活躍する姿を見られないこと」

 父が亡くなった当時10歳だったが、この言葉は今でも鮮明に覚えている。「二人三脚で乗り越えてきた母のためにも、このまま野球をやめるわけにはいかない」。そんな時、横山博英部長から「マネジャーは主将と同じで幹部の仲間なんだぞ」と言われ、「誰にも負けない唯一無二のマネジャーになろう」と心に決めた。

 内気な性格で、人前で話すことが苦手だった。それでも「チームが成長できるなら」と嫌われる覚悟を決め、主力選手に対しても「練習に集中しろ」など、厳しいことを口にした。練習時はノッカーやブルペン捕手、審判、用具係などを務め、練習外では選手の体調管理、ミーティングの進行役を担うなど何事も自分から積極的に行動した。献身的な姿に斎藤監督も「大抵のことは指示する前に終わらせている。歴代3本の指に入るマネジャー」と絶大な信頼を寄せる。

 大会第7日、12日の海星(長崎)戦。赤津さんは、幼い頃の自分が父に抱っこされた様子を写した写真をバッグに入れ、記録員としてベンチ入りした。リードを許す展開。「自分の力を信じて、最後までがんばれ!」とナインを鼓舞した。最後まで粘りを見せたが、試合は2―3の惜敗。選手とは少し違う形になったが、8年越しの夢を父に届けることができた。「最後まで見守ってくれてありがとう。かっこいいと思ってもらえたら、うれしいな」【磯貝映奈】

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