江戸時代から文学や歌舞伎などで親しまれ、現代では、漫画やアニメなどにも登場する忍者。日本人のみならず外国人をも魅了して、今、ちょっとしたブームとなっています。「忍者学」の第一人者、山田雄司・三重大学人文学部教授を質問攻めしてみました。【長尾真希子】
いつ誕生したの?
南北朝時代(1336~92年)の軍記物語「太平記」には、「忍」として、忍者の存在が記録されており、14世紀には忍者がいたとされています。戦国時代には各地の大名に仕え、敵陣に忍び込んで戦っていました。江戸時代には、大名を守るため、ガードマンのような役割を果たしていたと言います。
主な仕事は、情報収集。時には、商人や僧侶、旅芸人などに変装し、城の構造や蓄えられた食糧がどれくらいあるのかなどの情報を集め、主君に伝えていました。主君はその情報をもとに、いつどう敵陣を攻めるかを考えていたと言います。
忍者は情報を守るため、いざという時には、相手を倒す武術も身につけていました。また、化学の知識も豊富で、薬や毒、火薬なども使いこなせました。情報を聞き出す必要があったため、コミュニケーション能力も高かったそうです。
有名な忍者っているの?
忍者といえば、三重県伊賀市の伊賀忍者と滋賀県甲賀市の甲賀忍者が有名です。昨年、伊賀・甲賀の「忍びの里」が文化庁の「日本遺産」にも認定されました。
伊賀と甲賀は、都だった京都に近く、最新の技術や情報が伝わりやすい土地に位置していました。山に囲まれているうえ、織田信長や徳川家康の出身地・愛知県(尾張、三河)のほぼ中間にあったため、地理的にも重要な場所でした。
伊賀忍者と甲賀忍者が活躍したのは、家康の「伊賀越え」です。1582年に明智光秀が信長を討った「本能寺の変」が起こり、次に命を狙われた家康を大坂から故郷・三河の岡崎城に送り届けました。
伊賀忍者は、鉄砲など火薬を使うのを得意としました。一方、甲賀忍者は、甲賀は平安時代から薬草の産地として有名だったため、薬や毒に詳しかったそうです。
忍者の武器やかっこうは?
忍者の武器といえば、手裏剣をイメージするかもしれません。しかし、江戸時代に武士が手裏剣を打った記録はあっても、忍者が手裏剣を使った記録はないそうです。
ただ、矢の先に毒を塗った「吹き矢」や、逃げる際に先がとがった鉄をまく「まきびし」(写真、伊賀流忍者博物館蔵)、竹筒で音を聞く「耳筒」などは存在したそうです。武器は、農具など身近なものを改造して自分で作ったため、知恵が詰まっているそうです。
また、忍者の服装といえば、黒い服に頭巾のイメージですが、実際は、茶色や紺色の野良着(農作業をする時に着る服)を着ていたと言います。黒は染めるのが難しく、高貴な色とされていたため、身分が低い忍者は着ることができなかったそうです。
忍者は、昼間は旅芸人などに変装し、夜は目立たない野良着を着て、情報収集などをしていました。江戸時代の歌舞伎で、今の忍者の格好が登場したため、一般にイメージが定着したそうです。
学問として注目ってホント?
昨年7月、三重大学に「国際忍者研究センター」が設立されました。全国各地にある忍者に関する古文書を探すなどして、忍者の歴史をひもとく調査を進めているそうです。
今年2月には、「国際忍者学会」も設立されました。シンポジウムには200人も参加したそうです。
また、三重大では今年度から、大学院に「忍者・忍術学」の専門科目が設けられました。3人が合格し、4月から忍者研究に励んでいるそうです。
忍術には、体の使い方や薬草、火の使い方など忍者独特の知恵がたくさん詰まっています。山田教授は「忍者を研究することで、昔ながらの忍者の知恵を見直し、現代社会に役立てていきたい」と話しています。
なんで海外でも人気なの?
アニメ「NARUTO」や「忍者ハットリくん」などが世界各地でテレビ放送されているため、「クールジャパン」と呼ばれる日本の魅力の代表として、忍者がとらえられていることが大きいです。
三重県伊賀市の伊賀流忍者博物館には、年間約3万人の外国人観光客が訪れるそうです。2011年度と比べて6倍に増えました。台湾や香港のほか、アメリカやフランスなどの観光客が多いそうです。
同博物館の学芸員、幸田知春さんは「人の心を読んで、争わず、和を重んじるという忍者の心得が、こんな世の中だからこそ世界の人たちに評価されているのでは」と分析していました。
山田教授は「アジアでは、アニメの影響で忍者はかっこいいととらえ、ヨーロッパでは、忍者を魔術的な存在や『東洋の神秘』として興味を持っているようです」と教えてくれました。