8月6日は何の日でしょう。では8月9日は--。73年前の1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍が投下した原爆が広島市の上空でさく裂しました。3日後の9日午前11時2分には長崎市の上空で。「あの日」を知る意味を考えます。【長尾真希子、望月麻紀】
原爆が投下された当時、日本は太平洋戦争でアメリカやイギリス、中国などの連合国と戦っていました。
原爆の爆風、熱線、放射線は人々の命を奪い、街を破壊しました。死亡者は45年末までに広島で約14万人、長崎で約7万4000人に上ったと推計されています。
たとえば長崎市の旧城山国民学校(現在の市立城山小学校)は、原爆がさく裂した爆心地にもっとも近い国民学校で、約500メートルのところにありました。学校にいた先生や学校内で仕事をしていた女学生ら152人のうち132人が死亡。学校近くの自宅にいた児童約1400人が亡くなりました。
生きのこった人たちも家族を失いました。放射線の障害で心や体に傷を負いました。73年たっても苦しみは続いています。
2発の原爆で、これだけ大きな被害を受けた日本は、唯一の戦争被爆国です。しかし、戦後70年の2015年にNHKが行った全国世論調査によると、原爆が投下された年月日を正しく答えられた割合は、広島原爆で30%、長崎原爆で26%でした。
広島平和記念資料館(広島市)には、焼け焦げた弁当箱や三輪車などが多数展示されています。「8月6日の原爆のきのこ雲の下で、一体何が起きていたのか。原爆で奪われたものの大きさや原爆がもたらした惨劇を『もし自分がここにいたら』と想像してほしい」。志賀賢治館長(65)は言います。
世界には今、原爆などの核兵器が約1万4500発あります。長崎原爆資料館(長崎市)の中村明俊館長(59)はこう言います。「原爆の悲惨さを理解している人は多いのに、なぜ核はなくならないのか。心の中に波紋が広がったら、波紋の行方を見つめてください。『解決するのは自分』だと思いながら資料館へ来てほしいです」
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両資料館長から読者のみなさんへのメッセージの全文は、8月8日(一部地域は9日)に掲載します。
この三輪車は…
広島原爆の爆心地から1500メートルのところに、この三輪車に乗っていた3歳の鉄谷伸一ちゃんの家はありました。伸一ちゃんは自宅前で三輪車で遊んでいて被爆。その夜亡くなりました。お父さんは「たった3歳の子を一人でお墓に入れてもさみしいだろう」と、亡きがらと三輪車を自宅の裏庭に埋葬しました。40年後に遺骨を墓に納め、三輪車を資料館に寄贈しました。