愛する家族をうばった東京大空襲について語る高木敏子さん=千葉市で、松田嘉徳撮影
高木敏子・作、武部本一郎・画「新版 ガラスのうさぎ」(金の星社)
高木さんの実家が近くにあった東京・両国付近。45年3月10日の東京大空襲では一夜のうちに焼け野原になり、10万余の人命が失われ、100万人が路頭に迷った。
1945年に第二次世界大戦が終わってから、今年で75年をむかえます。これまでに戦争の悲しさや平和のとうとさを子どもたちに伝える本が生まれてきました。名作を通じて戦争と平和を見つめ直します。初回は、45年3月10日の東京大空襲をテーマにした「ガラスのうさぎ」です。
「ガラスのうさぎ」は、児童文学作家の高木敏子さん(87)の戦争体験に基づいた作品です。戦争が激しくなると、高木さんは生まれ育った東京をはなれ、神奈川県二宮町ですごしました。子どもたちがアメリカ軍の空襲をさけるためで、疎開といいます。東京を訪れたのは、東京大空襲の4か月後。見わたすかぎりの焼け野原になりました。
東京の家にいたお母さんと2人の妹は空襲の後、行方が分からなくなりました。お父さんは警防団(消防や防災に取り組む団体)の仕事をしなければならず、家族がはなればなれになってしまいました。お父さんは「3人を助けられなかった」と泣きながらくやんだそうです。
東京大空襲では、アメリカ軍の爆撃機B29約300機が東京の上空を襲い、たくさんの焼夷弾を落としました。焼夷弾には燃えやすい材料が入っていて、木造の建物が多い街は焼き払われました。死者は約10万人に上り、約100万人が家を失ったとされています。
高木さんの家の焼け跡からは、ガラスのうさぎの置物が見つかりました。お父さんが作ってくれたものでしたが、半分以上が熱でぐにゃぐにゃに溶けていました。これが本のタイトルになりました。
「ガラスのうさぎ」を出版してから、高木さんはたくさんの人たちに戦争体験を語ってきました。しかし、最近は病気になったり声が出なくなったりしてきたので、講演は昨年夏の二宮を最後にやめることにしました。
それでも高木さんは訴え続けます。「戦争を起こそうとするのは人の心です。戦争を起こさせないのも人の心です。戦争を起こさせない心の輪をしっかりと結び、世界に向かって広げていきましょう」【野本みどり】
東京大空襲で母妹失う
東京・本所(今の東京都墨田区)でガラス工場を営む家の長女として育った敏子。12歳の時に神奈川県二宮町の知り合いの家に疎開中、東京大空襲でお母さんと妹2人を失いました。終戦の10日前には、新潟に再疎開するために敏子を迎えに来たお父さんが、二宮駅でアメリカ軍の戦闘機の機関銃にうたれて亡くなりました。戦争が終わり、軍隊に入っていた兄2人が帰り、新しい暮らしを始めるまでを描きます。本は1977年に出版され、2000年に、子どもには難しい言葉に説明をつけた「新版」となりました。文庫版なども出され、累計で240万部のロングセラーとなっています。