山桜(やまざくら)の版木(はんぎ)。彫(ほり)師(し)の技(わざ)が浮(う)かび上(あ)がります。版木(はんぎ)にのりと色(いろ)を載(の)せ、ブラシで伸(の)ばします
全国的に梅雨空が広がっています。ジメジメと、蒸し暑い季節です。
「湿度が高いと、和紙が水分を含んで、軟らかくなります。紙の状態を見ながら、力の入れ加減を調整しています」
江戸木版画の「摺師」、早田憲康さん(36)は「バレン」を動かし、版木に載せた和紙に圧力をかけていきます。
絶妙(ぜつみょう)な力(ちから)加減(かげん)でバレンを動(うご)かす摺(すり)師(し)の早田(そうだ)憲康(のりやす)さん。バレンは摺師(すりし)の道具(どうぐ)の要(かなめ)。色(いろ)の濃淡(のうたん)やぼかしなども摺(す)りで表現(ひょうげん)します。江戸(えど)木版画(もくはんが)は紙(かみ)の裏面(うらめん)に版木(はんぎ)の凹凸(おうとつ)が浮(う)き出(で)ます
最初は輪郭の黒い線だけだった大きな顔が、7回目の摺りで背景に墨色が入り、浮き上がってきました。江戸の歌舞伎役者「三代目大谷鬼次の奴・江戸兵衛」。世界中にファンが多い謎の浮世絵師、東洲斎写楽の傑作の一つです。
高橋(たかはし)工房(こうぼう)6代目(だいめ)の高橋(たかはし)由貴子(ゆきこ)さん
江戸時代に始まった「浮世絵版画」は、今でいうポスターや雑誌、絵はがきのようなものでした。江戸兵衛のような「役者絵」、女性を描いた「美人画」、各地の名所図などの「風景画」……こうした絵を庶民の楽しみとして安く、たくさん作るのを可能にしたのが「木版画」です。
「ひとことで言えば、手作業の印刷屋ですね。樹木に恵まれた日本では古来、木の文化が育ってきました。木版は日本らしい印刷技法です」
江戸木版画の「高橋工房」(東京都文京区水道)6代目の高橋由貴子さん(75)はそう語ります。高橋工房は160年前の江戸時代末期から、ここ西江戸川(現・神田川)近くで浮世絵版画を作り続けています。
絵師だけでは描けない
浮世絵というと、写楽や「富嶽三十六景」の葛飾北斎、「東海道五十三次」の歌川広重など「絵師」の存在が有名ですが、絵師だけで作品はできません。
摺る、つまり印刷することで完成する浮世絵版画は、絵師が描いた下絵をもとに版木を彫刻刀で彫る「彫師」、その版木を使って紙に印刷する「摺師」、そして、どんな印刷物を作るのかを考え、絵師、彫師、摺師を束ね、できたものをどう売るかを組み立てる「版元」のネットワークがあって初めて作品は世に出ます。「材料や道具などを作る職人もいます。名作の陰には名もないたくさんの職人がいたのです」。摺師であり、版元でもある高橋さんは言います。
色ごとに版がある
版木(はんぎ)に付(つ)けられた二(ふた)つの見当(けんとう)に紙(かみ)の角(かど)を合(あ)わせて紙(かみ)を置(お)きます
浮世絵版画の特徴の一つが、多色摺りです。錦絵ともいわれる色彩豊かな絵は、1枚の版木にいろいろな色を塗って一度に摺るのではありません。色ごとに違う部分を彫った版木を何枚も作り、何度も摺り重ねていきます。
この「江戸兵衛」の版木は8枚。ずれることなく色をつけられる秘密は、版木につけた2か所の目印「見当」にあります。「見当違い」という言葉の語源はここです。紙の角を見当に当てて摺りますが、狙い通りに合わせられるかは摺師の腕にかかっています。
「季節によって版木も収縮するので、調整するのが大変ですね。紙も水分を含みすぎると変形しかねません。真っ平らな状態で摺るよう心がけています」と早田さん。今年7年目の若い職人です。
最後に絵師の名前が摺られ完成しました。材料、道具、技。この一枚には、時を超え、人の手によって受け継がれたものが詰まっています。【文・森忠彦、写真・内藤絵美】
江戸時代(江戸時代)の材料・道具・方法(方法)で
国の伝統的工芸品である江戸木版画は、当時の材料、道具、技術で作らなくてはなりません。「版木に使う山桜も、和紙の原料のコウゾも、江戸時代には身近にあったから使われていたのでしょうが、今では手に入れるのが大変」と高橋さん。江戸時代の絵の具には、毒性のある「ヒ素」を含むものもあり、それは現在、使えません。材料の変更を国に伝え、許可を得て別の絵の具で代用しているそうです。
海外に残る当時の浮世絵
江戸時代の浮世絵は1枚「16文」、かけそば1杯に当たる手ごろな値段でした。まさに庶民のための絵だったので大事に保管されることも少なく、不要になると包み紙などに使われました。この浮世絵に注目したのが、明治時代になってやってきた海外の人たち。現在、保存状態がいい浮世絵の多くがアメリカやヨーロッパの美術館にあるのはそのためです。
和紙
高橋工房で使う紙は、福井県産の「越前和紙」です。クワ科の低木「コウゾ」が原料で、手作業ですいた「生漉奉書」を使います。和紙は手触りがごつごつした印象もありますが、生漉奉書はふんわりと柔らかな布のようです。「越前のものは絵の具をしっかり吸い、チリ(木のくず)がありません」と高橋さん。「チリが顔にかかったら、せっかくの美人画がだいなしです」。水に不純物が交じりにくい寒い時期にすいた紙が最高だそうです。
絵の具
江戸木版画に使う絵の具は水に溶けない「顔料」が主で、植物性と鉱物性のものがあります。「墨」「弁柄(紅殻)」「本藍」「ベロ藍」「胡粉=白」「雲母」など名前だけでイメージが膨らみます。絵の具を混ぜたり、摺り重ねたりすることでさまざまな色を出すのも摺師の技。絵の具の色は時間がたつとあせますが、できるだけ当時のままの色合いで復刻しているそうです。「時間とともに色が変わっていく過程を見るのも楽しいですよ」と高橋さん。
版木
江戸兵衛(えどべえ)に使(つか)った版木(はんぎ)。裏面(うらめん)にも版(はん)が彫(ほ)られています。色(いろ)の付(つ)く部分(ぶぶん)が高(たか)くなるよう彫(ほ)られています
版木には、国産の山桜を使います。山桜は硬くて丈夫なため、細かな彫刻をするのに適しています。しかし、版木が取れるような大きな桜は減っているそうです。何度も使って擦り減った版木は削り直して再利用します。東京は関東大震災や戦争時の大空襲があったため、江戸時代の古い版木はほとんど残っていないそうです。
多色刷り
「三代目大谷鬼次(おおたにおにじ)の奴(やっこ)・江戸兵衛(えどべえ)」に使(つか)った色(いろ)
「三代目大谷鬼次(おおたにおにじ)の奴(やっこ) 江戸兵衛(えどべえ)」八 墨(すみ)(文字(もじ)) 絵師(えし)の名前(なまえ)「東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)画(が)」を摺(す)って完成(かんせい)
「雲母(きら)まき」 きらきらと輝(かがや)く鉱物(こうぶつ)「雲母(うんも)」の粉(こな)をまきます。のりを塗(ぬ)った背景(背景)にだけ雲母(うんも)が残(のこ)ります
●「高橋工房」
東京都文京区水道2の4の19
03・3814・2801
https://takahashi-kobo.com
江戸末期の安政年間(1854~60年)に摺師として創業。4代目から版元の役割も担っています。浮世絵の復刻を中心に、日本画・洋画の江戸木版画による再現やアニメとのコラボ作品なども。一方、料亭のおしながきといった江戸から続く木版印刷業の側面も大切にしている。現在、摺師は6代目の高橋さん、早田さんと、入って1年目の柳菜緒美さん(32)。高橋工房も加盟する「東京伝統木版画工芸協同組合」には現在、専業の彫師と摺師がそれぞれ約十数人ずついるそうです。
協力:江戸東京きらりプロジェクト
次回の「江戸東京見本帳」は7月28日(一部地域は29日)に掲載します。