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戦争は終わっていない

戦後76年の今でも戦争の被害に苦しんでいる人たちがいる。戦争報道を専門とする栗原俊雄記者から若い人へのメッセージ。

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戦争は終わっていない

15歳のニュース 戦後76年・戦争は終わっていない 第1部・戦争孤児/1 吉田由美子さん

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3歳の時、東京大空襲で両親と妹を亡くした吉田由美子さん。手にしているのは七五三の記念撮影の自分の写真。自宅が焼けてしまったため、家族の写真はほとんど残っていない=東京都千代田区の衆議院第2議員会館で6月8日、栗原俊雄撮影 拡大
3歳の時、東京大空襲で両親と妹を亡くした吉田由美子さん。手にしているのは七五三の記念撮影の自分の写真。自宅が焼けてしまったため、家族の写真はほとんど残っていない=東京都千代田区の衆議院第2議員会館で6月8日、栗原俊雄撮影

 「戦後○○年」という表現をしばしば耳にする。確かに1945年夏、第二次世界大戦は日本の敗北で終わった。でも、戦争の被害ひがいで今も苦しんでいる人はたくさんいる。第1部(全5回)のテーマは「戦争孤児こじ」。戦争にまれ、親を失った子どもたちはどうやって生きてきたのか。「戦後76年」もたったのに、なぜかれらが戦争は終わっていないというのだろうか。一緒いっしょに考えてほしい。【学芸部・栗原俊雄くりはらとしお

3歳、消えた家族 吉田由美子さん(80) 茨城県鹿嶋市

 茨城県鹿嶋かしま市で暮らす吉田よしだ由美子ゆみこさん(80)は1941年6月、東京の本所業平橋ほんじょなりひらばし現墨田区すみだく)で生まれた。現在、東京スカイツリーが建っている場所だ。父は会社員で、母は和服の裁縫さいほうや生け花の先生をしていた。

開戦

 吉田さんが生まれた半年後の41年12月、日本は米国や英国などの連合国と戦争を始めた。初めは陸軍がフィリピンやシンガポールを占領せんりょうし、海軍が米英の艦隊かんたいに大損害をあたえるなどして日本軍が優勢だった。しかし、戦争に必要な石油などの資源が日本よりはるかに豊かで、科学技術でも勝っていた米国が本格的に戦争に力を入れると、日本軍は後退を続けた。

 44年夏に南太平洋にあるサイパンなどのマリアナ諸島を占領されたのが、大きな痛手となった。米軍はここの基地を拠点きょてんにして、大型爆撃機ばくげききB29による日本本土の爆撃ばくげきを始めた。

東京大空襲

 45年3月9日夜。会社から帰宅した吉田さんの父親は「東京もいよいよ危ないから」と、自分の実家のある新潟へ家族を疎開そかい空襲くうしゅうけるために地方に移住すること)させることを決めていた。両親は生後3カ月の次女の世話としの準備でいそがしく、3さいになった吉田さんは近くに住む母親の祖父母の家に預けられた。

 母親の妹(叔母おば)がむかえに来た。その数時間後の10日未明、300機以上のB29が東京の隅田川すみだがわ沿岸をおそった。B29はゼリー状の油をつめた「焼夷弾しょういだん」という爆弾ばくだんを大量に投下した。日本は燃えやすい木造の建物が多いため、これを焼きくすために開発した爆弾だ。爆撃は2時間程度で終わったが、強い北風がいていたことで火災が広がり、約10万人がくなった。

 叔母は預かった吉田さんを背中におんぶして、ほのおの中をまどった。幼かった吉田さんに空襲の記憶きおくはほとんどない。「両親のもとに返してあげなくては」と命がけで吉田さんを守ったと、後に聞かされた。しかしその両親と妹は、空襲後に行方ゆくえ不明となった。亡くなったと思われるが、遺体も遺骨も見つからなかった。吉田さんが預けられた親戚しんせきの家も焼けた。3歳で住む家がなくなったのだ。(次週につづく)


米軍の爆撃で焼け野原になった東京の下町地域。1945年3月10日の東京大空襲では一夜のうちにおよそ10万人が虐殺された。手前は国技館=1945年9月28日撮影 拡大
米軍の爆撃で焼け野原になった東京の下町地域。1945年3月10日の東京大空襲では一夜のうちにおよそ10万人が虐殺された。手前は国技館=1945年9月28日撮影

東京大空襲とうきょうだいくうしゅう 1945年3月10日未明

 東京は1944年以降100回を空襲くうしゅうを受けた。特に被害ひがいの大きかった45年3月10日未明の空襲を「東京大空襲」と呼ぶ。火災に弱い日本の市街地を効果的に壊滅かいめつさせるため、米軍は爆撃ばくげき方法に夜間・低高度・焼夷弾しょういだんを採用した。サイパン島をふくむマリアナ諸島を出撃しゅつげきしたB29戦略爆撃機約300機が、約1700トンの焼夷弾を投下。日本の人的損害は現在の墨田すみだ区、江東こうとう区、台東たいとう区の下町地区を中心に死者・行方ゆくえ不明10万人、負傷者4万人以上に達した。被災ひさい家屋は約27万戸におよぶ。米軍の調査によると、焼失面積は41平方キロに上った。同様の爆撃で名古屋は約8000人、大阪は1万人以上が犠牲ぎせいになったとされる。


栗原俊雄(くりはら・としお) 拡大
栗原俊雄(くりはら・としお)

 ■人物略歴

栗原俊雄(くりはら・としお)

 1996年入社。横浜よこはま支局などを経て2003年から学芸部。専門は日本近現代史。「一年中8月ジャーナリズム」=戦争報道がモットー。著書に「戦艦大和せんかんやまと」「シベリア抑留よくりゅう」「遺骨 戦没者せんぼつしゃ三一〇万人の戦後史」(以上岩波新書)、「特攻とっこう」(中公新書)、「戦後補償ほしょう裁判」(NHK出版新書)など。1967年生まれ。東京都板橋いたばし区出身。早稲田大わせだだい大学院修士課程修了しゅうりょう(日本政治史)。


 ■KEYWORDS

 【日本にっぽん米国べいこく英国えいこく戦争せんそうはじめた】

 1941年12月8日未明、旧日本陸軍は英国領だったマレー半島(現在のマレーシア)に上陸し、旧日本海軍は米国ハワイ・真珠湾しんじゅわんにあった米軍の太平洋艦隊かんたい基地を空襲くうしゅうした。真珠湾の米軍は戦艦など21せき沈没ちんぼつ・損傷し、市民をふくむ約2400人が死亡した。日本の宣戦布告がおくれたため、開戦通告なしに先制攻撃こうげきしたとして米国民の反日感情を増幅ぞうふくさせた。

 【サイパン】

 北マリアナ諸島の一つで、面積は115平方キロ。戦前は、日本が約30年間統治し、太平洋戦争の激戦地となった。米軍が1944年6月15日に上陸し、日本軍の主力は7月7日にほぼ全滅ぜんめつ。日本軍の軍人・軍属約4万3000人、民間人約1万2000人、米軍人約3500人、現地住民約900人が亡くなった。島北端しまほくたんの海岸には、戦争中、多くの日本人が身を投げた断崖だんがいのバンザイ・クリフがある。

 【B29】

 第二次世界大戦中に運用が始まった米陸軍の大型爆撃機ばくげきき。1945年3月の東京大空襲とうきょうだいくうしゅうをはじめ日本各地に甚大じんだい被害ひがいをもたらした。航続距離こうぞくきょりは6000キロちょうとされ、44年以降の主要出撃しゅつげき基地だったマリアナ諸島から約2500キロはなれた東京に給油なしで飛来、攻撃こうげきした。高度約1万メートルでの飛行が可能で、45年8月には広島、長崎ながさき原爆げんばくを投下。朝鮮戦争ちょうせんせんそうまで米軍の主力を担った。

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