
連載記事 132件
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「信長拝受の宝」を敵将に託した光秀娘婿の“死に際”
戦国武将の危機管理
「明智秀満って誰?」といわれそうである。明智光秀の重臣であり、光秀の娘と結婚していたので、娘婿にあたる。系図によっては光秀…
2020年4月27日
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伊達政宗「実戦話」を後世に伝えた“最後の戦国武将”
戦国武将の危機管理
伊達政宗のことを「最後の戦国武将」などと表現することがある。永禄10(1567)年、織田信長が足利義昭を擁して上洛を果たす…
2020年4月13日
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口を酸っぱくして「命令遵守」を定めた明智光秀の軍律
戦国武将の危機管理
戦国武将は、一軍の統制を守るため、軍律を定めた厳しい家中軍法を制定している。多いのは抜け駆けの禁止、無断撤退の禁止などであ…
2020年3月16日
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「ゴマすりを見分けよ」藤堂高虎の“含蓄家訓200条”
戦国武将の危機管理
藤堂高虎といえば、加藤清正と並ぶ築城名人として有名であるが、苦労人だったことでも知られている。仕えた主君が戦いで負けたり、…
2020年3月2日
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「明智城落城!」自害した叔父が光秀に託した“遺言”
戦国武将の危機管理
明智光秀の前半生は謎が多く、父親の名前についても系図によってちがいがある。光綱・光隆・光国の3説があるが、一般的に流布して…
2020年2月17日
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信長に馬13頭を突き返された北条氏政の“逆転人生”
戦国武将の危機管理
天正10(1582)年2月から3月にかけての織田信長による甲斐の武田勝頼攻めにあたり、小田原城の北条氏政は信長に呼応し、相…
2020年2月3日
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「麒麟がくる」時代考証の小和田氏が探る本能寺の真相
戦国武将の危機管理
天正10(1582)年6月2日未明、明智光秀が1万3000の兵を率いて京都本能寺を襲撃し、信長とその長男信忠を殺害した。世…
2020年1月20日
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長生きして天下を取った家康「実践した三つの健康法」
戦国武将の危機管理
戦国武将の没年齢を調べると50歳前後が多い。たとえば、上杉謙信は49歳、加藤清正は50歳、池田輝政は50歳、武田信玄は53…
2020年1月6日
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水不足で“我田引水”を防ぐため宇喜多秀家がしたこと
戦国武将の危機管理
戦国時代、全国の主要産業といえば農業で、その中心は稲作だった。稲作には陸稲もあるが、圧倒的大多数なのは水稲耕作である。 そ…
2019年12月23日
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家康家臣が見事に押さえ込んだ「暴れ天竜と坂東太郎」
戦国武将の危機管理
今年の台風19号による洪水被害の状況は、あらためて水の脅威を思いおこさせる形となった。ふり返って、戦国時代はどうだったのだ…
2019年12月9日
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「代官が不正!」百姓に“内部告発”を促した北条氏康
戦国武将の危機管理
北条氏康は戦国大名・後北条氏の3代目である。氏康の行った税制改革は危機管理の具体例として挙げられるが、加えて「組織内部の引…
2019年11月25日
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最大のライバルを打ち負かした毛利元就の“奥の手”
戦国武将の危機管理
大内義隆の重臣だった陶(すえ)隆房が天文20(1551)年8月末に義隆を長門に逐(お)い、自刃させる事件がおこった。隆房は…
2019年11月11日
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明智光秀軍1万3000人「信長討伐」で見せた“神わざ”
戦国武将の危機管理
明智光秀が本能寺にいる織田信長の襲撃を決意したのがいつなのかは正確にはわかっていない。光秀は、備中高松城の水攻めを続けてい…
2019年10月28日
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島津家の財政を支えた“年貢以外”の三つの収入源
戦国武将の危機管理
戦国大名、島津氏は「薩摩・大隅・日向3カ国の太守」などといわれ、全国の数ある戦国大名の中でも、その実力は上位にランクづけさ…
2019年10月14日
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「敵に回すと怖い!?」家康が島津氏を潰さなかったわけ
戦国武将の危機管理
慶長5(1600)年9月15日の関ケ原の戦いは、徳川家康率いる東軍の勝利で終わり、その戦後処理は厳しいものだった。石田三成…
2019年9月30日
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「天下を望むな」と子孫に厳命した毛利元就の“自戒”
戦国武将の危機管理
「戦国武将の誰もが、天下に号令したいと思っていた」と考えている人が多いが、それは正しくない。結果的に、織田信長・豊臣秀吉・…
2019年9月2日
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信長に「面目ほどこし候」と絶賛された光秀の丹波攻め
戦国武将の危機管理
織田信長は、天正3(1575)年5月21日の三河長篠・設楽原の戦いで武田勝頼軍を破ったことで、ようやく、東の脅威が取り除か…
2019年8月19日
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離反寸前の重臣が起草した「六角家式目」の意外な中身
戦国武将の危機管理
戦国時代、戦国大名の中には、自分の領国内だけに通用する法である分国法を制定する者がいた。戦国家法ともいい、伊達氏の「塵芥集…
2019年8月5日
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日本史最大のミステリー「本能寺の変」はなぜ起きた?
戦国武将の危機管理
◇「明智光秀」小和田哲男さんに聞く(下) 明智光秀はなぜ主君、織田信長を討ったのか。1582年6月に起きた「本能寺の変」は…
2019年7月26日
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織田家臣「序列トップ」明智光秀はとてもいい人だった
戦国武将の危機管理
◇「明智光秀」小和田哲男さんに聞く(上) 2020年のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」は明智光秀が主人公だ。その時…
2019年7月23日
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“武田四天王”を登用した信玄流人事「門閥より能力」
戦国武将の危機管理
戦国時代まで、家臣登用の基本は譜代門閥主義だった。たとえば、親が家老だったら子も家老になるという形である。そうした譜代門閥…
2019年7月22日
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関ケ原で西軍だった武将の“涙ぐましい”生き残り策
戦国武将の危機管理
慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの前哨戦となったのが、同年7月19日からはじまった伏見城の攻防戦だった。8月1日に伏見城…
2019年7月8日
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敵に“度量”ある明智光秀と“皆殺し”信長の「違い」
戦国武将の危機管理
天正10(1582)年6月2日の本能寺の変のとき、明智光秀の軍勢は1万3000といわれている。居城だった丹波亀山城を出陣し…
2019年6月24日
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家康が生涯悔やんだ「嫡男・信康切腹事件」の真相とは
戦国武将の危機管理
徳川家康75年の生涯において、最大の痛恨事とされているのが、嫡男信康を切腹させざるをえなかったことといわれている。信康事件…
2019年6月10日
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秀吉最古参の家臣・仙石権兵衛の“浮き沈み人生”
戦国武将の危機管理
仙石秀久は、名乗り(諱=いみな)の「秀久」より、通称の「権兵衛(ごんべえ)」の方が有名である。織田信長の家臣で、信長在世中…
2019年5月27日
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豊臣秀吉が築いたライバル家康への“周到”な包囲網
戦国武将の危機管理
天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めによって、最後まで抵抗していた戦国大名北条氏が滅ぼされた。これによって、葛…
2019年5月13日
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「桂浜に集まれ」山内一豊が長宗我部遺臣に何をしたか
戦国武将の危機管理
慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの論功行賞で、東軍・徳川家康方についた山内一豊は、それまでの遠江掛川城主5万9000石か…
2019年4月29日
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今川義元・武田信玄と敵対した北条氏康「撤退の決断」
戦国武将の危機管理
北条氏と今川氏は、本来、姻戚関係にあり、同盟関係にあった。北条氏初代の北条早雲(伊勢宗瑞)の姉が今川氏親の母で、早雲も伊豆…
2019年4月15日
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秀吉が「筑前守」を返上し「藤吉郎」に戻した心の裏側
戦国武将の危機管理
羽柴秀吉、すなわち、後の豊臣秀吉は、はじめ木下藤吉郎秀吉と名乗っていた。木下から羽柴への改姓は天正元(1573)年のことで…
2019年4月1日
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細川幽斎が“盟友”明智光秀の誘いをはねつけた理由
戦国武将の危機管理
細川藤孝は室町幕府の幕臣、三淵晴員(みつぶち・はるかず)の子だ。父晴員の兄にあたる細川元常の養子となり、十三代将軍足利義輝…
2019年3月18日
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温泉につかって刀傷を癒やす「信玄の隠し湯」の効能
戦国武将の危機管理
山梨県や長野県、さらに群馬県には「信玄の隠し湯」といわれる温泉がいくつもある。正確に数えたことはないが、20から30はあり…
2019年3月4日
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徳川四天王に冷たくされた重臣の“出奔事件”てん末
戦国武将の危機管理
徳川家康の重臣で、酒井忠次と共に「両家老」といわれた石川数正が、天正13(1585)年11月13日、突如、三河岡崎城を退去…
2019年2月18日
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「信長の後継者は秀吉」いち早く読んだ男の決断とは
戦国武将の危機管理
天正10(1582)年6月27日に尾張清洲城で開かれた清洲会議の出席メンバーは、よく知られているように、柴田勝家・丹羽長秀…
2019年2月4日
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毛利家の嫡男に重臣が説いた「君ハ船、臣ハ水」の教え
戦国武将の危機管理
毛利元就の重臣に志道広良(しじ・ひろよし)という武将がいた。志道氏は安芸国高田郡志道村(広島市安佐北区)を名字の地とする毛…
2019年1月21日
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孤高の武将・上杉景勝がいち早く秀吉に臣従した理由
戦国武将の危機管理
上杉謙信の死後、御館(おたて)の乱とよばれる家督争いに勝利して家督をついだ上杉景勝は、武田勝頼と結んでいたため、天正10(…
2019年1月7日
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会津若松の城下町に都市計画を取り入れた蒲生氏郷
戦国武将の危機管理
蒲生氏郷の城下町だった伊勢松坂(三重県松阪市)は、現在でも一部道路が湾曲しているところがある。それは、道沿いに家を建てると…
2018年12月24日
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土佐の名家・一条氏が長宗我部家に滅ぼされたワケ
戦国武将の危機管理
室町時代、公家の一条氏から、「当代一の学才」といわれ、関白・太政大臣にまでなった一条兼良(かねよし)が出ている。兼良は、年…
2018年12月10日
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織田信長が京都に二条城を築いた意外な理由
戦国武将の危機管理
永禄11(1568)年9月7日、織田信長は自ら尾張・美濃・伊勢の大軍を率いて岐阜を出発し、上洛のための軍事行動をおこした。…
2018年11月26日
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「毛利の所領は没収!」家康の命令を覆らせた男
戦国武将の危機管理
慶長5(1600)年9月の関ケ原の戦いを前にして、徳川家康は黒田長政および直臣の井伊直政らを使って、西軍の毛利陣営に対する…
2018年11月12日
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鶴岡八幡宮の再建に託した北条氏綱“三つの狙い”
戦国武将の危機管理
戦国大名・北条氏の2代目氏綱が、名字をそれまでの伊勢から北条に変えたことはすでに触れた通りである(注)。その氏綱は初代早雲…
2018年10月29日
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名古屋城を諸大名に築かせた家康「天下普請」の意味
戦国武将の危機管理
豊臣秀吉や徳川家康が、自分の居城を築くのに、配下の諸大名を動員して築かせることを手伝い普請といっているが、秀吉や家康といっ…
2018年10月15日
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会津92万石 蒲生氏郷が密かに感じていた不満とは
戦国武将の危機管理
蒲生氏郷は戦国大名六角氏の重臣、蒲生賢秀の子で、賢秀が織田信長に降ったとき、信長のもとに人質に出されている。信長は氏郷の将…
2018年10月1日
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「百姓逃散は親類まで成敗」長宗我部元親の危機感
戦国武将の危機管理
戦国時代、百姓たちが年貢を払うことができず、他の領地に逃げ去ることが少なからずあった。当時の表現では「欠落(かけおち)」と…
2018年9月17日
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朝鮮出兵で籠城を経験 清正は熊本城に何を残したか
戦国武将の危機管理
加藤清正が慶長6(1601)年から築城を開始した熊本城は徹底した籠城(ろうじょう)の備えがみられることで知られている。とに…
2018年9月3日
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越後長岡城に見る「築城の常識と常識外」
戦国武将の危機管理
慶長3(1598)年、越後春日山城主だった上杉景勝が会津若松城に移っていった。蒲生氏郷が亡くなったあと、豊臣秀吉が、徳川家…
2018年8月20日
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敵と父をやむなく撃った伊達政宗の判断に残るナゾ
戦国武将の危機管理
伊達政宗は、天正12(1584)年10月、父輝宗から譲られて、伊達家の家督についた。輝宗41歳、政宗18歳のことである。 …
2018年8月6日
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難攻不落の稲葉山城を落城させた織田信長のウラ工作
戦国武将の危機管理
織田信長の一番詳しい伝記である「信長公記」に信長の負け戦のことが書かれていないので、「信長は一生勝ちっ放しだった」と思って…
2018年7月23日
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「簡単に崩れない」信玄堤の真上に神社が作られたワケ
戦国武将の危機管理
武田信玄の領国甲斐には笛吹川と釜無川が流れ、それが合流して富士川となるわけであるが、源流から甲府盆地までの距離が短いことも…
2018年7月9日
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四国の覇者・長宗我部元親が秀吉に屈服したてん末
戦国武将の危機管理
長宗我部元親は、永禄3(1560)年の本山茂辰(もとやま・しげとき)との戦いが初陣で、その後、安芸氏を滅ぼし、一条氏を土佐…
2018年6月25日
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「幼名が家督の証し」暗黙ルールで争いを防いだ大内家
戦国武将の危機管理
戦国時代、一般庶民は別として、武士だと一生の間に何度か名前を変えている。まず、生まれたとき幼名がつけられる。幼名は童名とも…
2018年6月11日
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「秀吉には勝てない」伊達政宗の命を救った軍師の諫言
戦国武将の危機管理
片倉景綱は、通称の片倉小十郎の名で知られている。梵天丸(ぼんてんまる)といっていた子ども時代の伊達政宗の傅役(もりやく)で…
2018年5月28日
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一揆を防いだ秀吉の刀狩令 その裏にもう一つの狙い
戦国武将の危機管理
豊臣秀吉は天正16(1588)年7月付で3カ条の「条々(じょうじょう)」を出した。その冒頭第1条は、「諸国百姓等、刀・わき…
2018年5月14日
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家臣237人に忠誠を血で誓わせた信玄“最大の危機”
戦国武将の危機管理
甲斐の武田信玄は、相模の北条氏康、駿河の今川義元と同盟関係にあった。「甲相駿三国同盟」として知られている。信玄の嫡男義信の…
2018年4月16日
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毛利氏来襲のピンチに直面した大友宗麟の“妙手”とは
戦国武将の危機管理
戦国時代終盤の九州は「九州三強」とよばれる3人の戦国武将が、文字通り三つどもえの戦いをくりひろげていた。その3人とは、大友…
2018年4月2日
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武田軍が今川勢との決戦に勝った陰に「信玄誕生秘話」
戦国武将の危機管理
武田信虎というのは武田信玄の父である。信虎がそれまでの武田氏の本拠だった石和から躑躅ヶ崎(つつじがさき)館に移ったのが永正…
2018年3月19日
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関ケ原後の「領知あてがい」を家康が口頭で伝えた理由
戦国武将の危機管理
慶長5(1600)年9月15日の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は、西軍として戦った石田三成ら88人の大名の所領を没収し、ま…
2018年3月5日
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暴君を諫めるため踊り子を招いた家臣の“窮余の一策”
戦国武将の危機管理
豊後の戦国大名大友宗麟の重臣で、軍師ともいわれる立花道雪は、もとの名を戸次鑑連(べっき・あきつら)といった。「鑑」の字は、…
2018年2月19日
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「火縄を常に準備」加藤清正が示した“大将の心がけ”
戦国武将の危機管理
加藤清正といえば、賤ヶ岳七本槍(やり)の一人にカウントされているし、文禄・慶長の役のときの虎退治の話がよく知られ、豪傑とい…
2018年2月5日
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城を守れなかった家臣を追放した前田利家の“覚悟”
戦国武将の危機管理
賤ヶ岳の戦い後、次第に織田家を簒奪(さんだつ)する動きを露骨に示しはじめた羽柴秀吉に対し、それに待ったをかける形で戦いに挑…
2018年1月22日
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戦国時代に領主に抵抗した農民の“最後の手段”とは
戦国武将の危機管理
相良(さがら)氏はもともと遠江国榛原(はいばら)郡相良荘(現在、静岡県牧之原市相良)の出身だ。鎌倉時代にいわゆる西遷御家人…
2018年1月8日
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今川義元が使った印章「如律令」は“魔よけの呪文”
戦国武将の危機管理
戦国時代は印判状の全盛時代だった。印判状とは、武家や武将の印判(印章)を押した文書のこと。朱肉で押す「朱印状」のほか、「黒…
2017年12月25日
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「足利将軍が欲した手土産を献上」若き家康の狙いは?
戦国武将の危機管理
徳川家康がまだ松平元康といっていたとき、第十三代将軍足利義輝に馬を献上したことがあった。馬といっても、ふつうの馬ではなく、…
2017年12月11日
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「由井→滝山→八王子」居城を移した北条氏照の狙い
戦国武将の危機管理
北条氏照は北条氏康の三男で、天文9(1540)年の生まれである。氏康の養子送りこみ戦略の駒として、武蔵国由井(ゆい)城(東…
2017年11月27日
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“ドル箱”酒造業を岡山城下に囲った宇喜多秀家の狙い
戦国武将の危機管理
いまでこそ、宮城・秋田・山形・福島・新潟といった各県に銘酒がそろっているが、戦国時代はそうではなかった。たとえば、下総北部…
2017年11月13日
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“冷や飯ぐい”本多正信が家康の懐刀に出世したわけ
戦国武将の危機管理
「家康の懐刀」などといわれ、また、「君臣の間、相遇(あ)ふこと水魚のごとし」とまで表現され、常に徳川家康のそばに影のように…
2017年10月30日
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「家康暗殺計画の黒幕」と疑われた前田利長の“選択”
戦国武将の危機管理
豊臣秀吉が亡くなった翌年の慶長4(1599)年閏3月3日、五大老の一人だった前田利家が没し、五大老の地位はそのまま子の利長…
2017年10月16日
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「謀反人・光秀の誘いを拒絶」蒲生賢秀が称賛された理由
戦国武将の危機管理
蒲生(がもう)氏は近江の戦国大名、六角氏累代の重臣だった。賢秀の「賢」は六角義賢(承禎)の一字をもらい受けたものである。 …
2017年10月2日
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「孫子の兵法」で味方の犠牲者を減らした軍師・官兵衛
戦国武将の危機管理
戦国時代の大きな戦いだと、一度の戦いで両軍合わせて数千の死者が出るということもあった。戦いにあたって、いかに味方の犠牲者の…
2017年9月18日
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井伊直政は関ケ原の戦いでなぜ「抜け駆け」したのか
戦国武将の危機管理
関ケ原の戦いの前哨戦ともいうべき会津上杉攻めのため、徳川家康が豊臣大名を率いて下野の小山(おやま)まで進んだとき、石田三成…
2017年9月4日
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「本能寺後」家康の命を救った茶屋四郎次郎の“黄金”
戦国武将の危機管理
家康の人生で一番の危難とされるのが「神君伊賀越えの危難」などといわれる逃避行であろう。天正10年(1582)6月2日の本能…
2017年8月21日
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籠城兵に“土入り米俵”を見せた武田家臣依田信蕃の執念
戦国武将の危機管理
武田信玄・勝頼2代に仕えた家臣に依田信蕃(のぶしげ)という武将がいた。「武田二十四将」には入らないが武田氏の家臣としていく…
2017年8月7日
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織田・徳川軍が「長篠の戦い」で圧勝したもう一つの理由
戦国武将の危機管理
天正3(1575)年5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍との戦いが三河の長篠・設楽原で繰り広げられた。歴史の教科書にも大き…
2017年7月24日
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北条氏綱の遺言「万事倹約、百姓を苦しめることなかれ」
戦国武将の危機管理
戦国武将が残した家訓や遺言状をみると、ほとんどの場合、華美を戒め、質素倹約を励行するよう言い置いている。ふだんの生活が華美…
2017年7月10日
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「長幼の序」を覆した井伊直孝“大坂夏の陣の大手柄”
戦国武将の危機管理
関ケ原の戦いのときに受けた鉄砲傷が悪化し、井伊直政は慶長7(1602)年2月1日、42歳の若さで亡くなった。このとき、長男…
2017年6月26日
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伊勢水軍のスカウトで弱点を大補強した信玄のスゴ腕
戦国武将の危機管理
永禄11(1568)年12月、武田信玄は三河の徳川家康と結んで間に挟まれた形の今川氏真を攻め滅ぼしている。このとき、大井川…
2017年6月12日
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“単身赴任”の部下に激怒した信長が焼き払った120軒
戦国武将の危機管理
戦国武将の中で、最初に兵農分離に踏みきったのは織田信長である。それまでの戦国大名家臣団は兵農未分離であった。半農半士などと…
2017年5月29日
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戦国第2世代・黒田長政が心がけた家臣との意思疎通
戦国武将の危機管理
戦国武将はややもすると独断専行に陥りがちである。独断専行とならないまでも、自分のお気に入りだけをまわりに置く傾向がある。い…
2017年5月15日
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信長が「天下の面目」と激賞した明智光秀はトップ家臣
戦国武将の危機管理
明智光秀といえば、誰もが反射的に本能寺の変を思い浮かべるにちがいない。光秀が本能寺を襲い、信長を殺したことはまちがいないし…
2017年5月1日
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迫り来る危機から嗣子・秀忠を守り抜いた徳川家康
戦国武将の危機管理
徳川家康には11人の男子がいたが、長男信康は天正7(1579)年に自害させられ、次男秀康も豊臣秀吉に人質のような形で養子に…
2017年4月17日
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「大坂城普請5カ条の掟」で工事トラブルを防いだ秀吉
戦国武将の危機管理
羽柴秀吉は天正11(1583)年4月の賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田信長後継者としての地位を確固たるものとすると、大坂…
2017年4月3日
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ライバル尼子氏再興計画を2度阻んだ毛利輝元
戦国武将の危機管理
山中鹿介幸盛は「尼子十勇士」の一人に数えられる、戦国大名尼子氏の重臣である。ところが主君である尼子義久が永禄8(1565)…
2017年3月20日
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重臣に戦略を打ち明けなかった「桶狭間信長」の深謀
戦国武将の危機管理
桶狭間の戦いの前夜、すなわち永禄3(1560)年5月18日、織田信長の重臣たちは清須城に集まった。今川義元が三河・尾張の国…
2017年3月6日
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「中国大返し」を成功させた黒田官兵衛のアメとムチ
戦国武将の危機管理
天正10(1582)年6月2日の本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた。その第一報が備中高松城を水攻めしていた羽柴秀吉の…
2017年2月20日
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ばくちを「ご法度」にした戦国大名結城政勝の“見識”
戦国武将の危機管理
戦国時代、武士たちの間で囲碁・将棋は盛んだった。戦国時代の遺跡から碁石や将棋の駒はよく出土する。囲碁・将棋で、敵の動きを先…
2017年2月6日
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鉄張り巨大軍艦で毛利水軍に打ち勝った信長の発想力
戦国武将の危機管理
織田信長は伊勢湾を経済的な基盤としながらも、意外なことに水軍を組織するのは遅かった。永禄10(1567)年からはじまる伊勢…
2017年1月23日
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「相次ぐ当主の死」のピンチを救った女城主・井伊直虎
戦国武将の危機管理
井伊氏は、平安時代から続く名門で、遠江の井伊谷城(いいのやじょう、浜松市北区)の城主だった。国人領主として、南北朝時代には…
2017年1月9日
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北条早雲が役人の不正摘発に導入した「目安制」
戦国武将の危機管理
北条早雲という名前は、厳密にいえば正しくない。自らは一度も北条という名字を使っていないし、北条を名乗りはじめるのは子の氏綱…
2016年12月26日
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家老と軍師を能力本位で選んだ戦国大名・朝倉孝景
戦国武将の危機管理
江戸時代、「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助は、赤穂藩主浅野家の家老だった。親が家老だったので、家老職を世襲していた。これはどこ…
2016年12月12日
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有力家臣粛清で戦国大名にのし上がった毛利元就
戦国武将の危機管理
安芸の国人領主にすぎなかった毛利元就が戦国大名へ飛躍する画期となったのが、井上衆誅伐(ちゅうばつ)事件とか井上一族粛清事件…
2016年11月28日
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「失火は切腹」と命じた家康に反論した腹心・本多正信
戦国武将の危機管理
「徳川実紀」の「台徳院殿御実紀」に、慶長14(1609)年7月14日のこととして、「ことさらに令して煙草を禁ぜらる。烟を吸…
2016年11月14日
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家臣の争いを「鉄火の神裁」で収めた武田信玄の深謀
戦国武将の危機管理
現在、鉄火といえば、すぐ思い浮かぶのは鉄火丼とか鉄火巻きではなかろうか。マグロの赤身の色が、熱して真赤になった鉄と同じだか…
2016年10月17日
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博多港を押さえた“西国の雄”大内家のサバイバル戦略
戦国武将の危機管理
室町時代の明徳2(1391)年、守護、山名氏清が室町幕府に対して反乱を起こした。この「明徳の乱」で氏清討伐に功をあげた大内…
2016年10月3日
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長篠で大敗北した武田勢を旗印で鼓舞した春日虎綱
戦国武将の危機管理
戦国史にくわしい人も、春日虎綱という名前をみて、「春日虎綱って誰?」と思ったかもしれない。それも無理はない。これまで、高坂…
2016年9月19日
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関所を設置して情報漏えいを防いだ今川義元
戦国武将の危機管理
駿河・遠江2カ国を支配した段階の今川氏親が制定した「今川仮名目録」は、東国初の分国法として知られているが、その第30条に他…
2016年9月5日
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「年貢減免、すき・くわ付与」で百姓離散を防いだ秀吉
戦国武将の危機管理
戦いがあったあと、勝った側が攻め取った場所をどう支配していったかは、危機管理の面からも注目される。手にした土地は、家が焼か…
2016年8月22日
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「年俸」を自己申告させた蒲生氏郷の家臣掌握術
戦国武将の危機管理
蒲生氏郷(がもう・うじさと)は、南近江の戦国大名六角氏の重臣だった蒲生賢秀(かたひで)の子で、父賢秀が織田信長による六角攻…
2016年8月8日
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落雷に備えて子3人を分散させた家康のリスク感覚
戦国武将の危機管理
避雷針が発明される以前、雷は脅威であった。特に高層建築である天守にはよく雷が落ちている。防ぐ手だてはなく、天守のすぐ近くに…
2016年7月25日
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熊本で河川治水を成功させた加藤清正の意外な能力
戦国武将の危機管理
天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州を平定したあと、その論功行賞として肥後一国を与えられたのが佐々成政だった。ところが…
2016年7月11日
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相模・南海トラフ連続地震を好機に変えた北条早雲
戦国武将の危機管理
北条早雲(伊勢宗瑞)の伊豆討ち入りについては、従来の通説を覆す研究がいくつかあらわれている。 たとえば、「北条五代記」に、…
2016年6月27日
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長引いた三木城攻めで秀吉が得た「勝利の方程式」
戦国武将の危機管理
天下統一の覇者といわれる織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人については、何となく「一生、勝ちっぱなしだったのではないか」とい…
2016年6月13日
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「毒殺全盛」戦国時代に伊達政宗を救った毒消し薬
戦国武将の危機管理
戦国時代は、幕末・維新期と並んで、要人たちにとって、暗殺の危険がとりわけ多い時代だった。刀・槍(やり)や鉄砲といった武器に…
2016年5月30日
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減封でも家臣を守った直江兼続「対徳川戦略」の一手
戦国武将の危機管理
慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで西軍についた上杉景勝は、それまでの会津120万石から米沢30万石へ大幅な減封となった。…
2016年5月16日
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福岡城天守を壊して藩を守った黒田長政の外様魂
戦国武将の危機管理
福岡城に天守があったかなかったかは、長い間論争となっていて、それは今も続いている。 天守がなかったとする論者は、黒田家関係…
2016年5月2日
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租税10%統一と徳政令で農民を救った北条氏康の徳
戦国武将の危機管理
北条氏康は戦国大名北条氏の三代目で、北条早雲(伊勢宗瑞)の孫にあたる。軍事面でも、河越の戦いで関東の旧勢力山内(やまのうち…
2016年4月18日
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リストラなき財政再建を果たした伊達政宗
戦国武将の危機管理
伊達政宗は慶長5(1600)年の関ケ原の戦い直前、58万石だった。政宗を何としても自分の陣営に取りこみ、上杉景勝への押さえ…
2016年4月4日
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やる気を失った主を滅ぼして家を守った陶晴賢の決断
戦国武将の危機管理
陶晴賢(すえ・はるかた)は、はじめ名乗りを隆房といっていた。大内義隆の重臣で、周防守護代をつとめ、主君義隆から偏諱(へんき…
2016年3月21日
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蔵米販売をプロに任せた前田利家の「すごい」蓄財術
戦国武将の危機管理
戦国時代はその名の通り、戦いが日常的にくり返されていた。戦いには当然のことながら金がかかるわけで、戦国武将たちは富国強兵を…
2016年3月7日
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米俵で淀川決壊を防いだ石田三成の計算と決断
戦国武将の危機管理
具体的に何年何月のことかわからないが、大雨で淀川の水が増水し、河内堤が切れそうになったことがある。周知のように、大坂城およ…
2016年2月22日
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NHK真田丸でも活躍 本多忠勝が家康を救った「一喝」
戦国武将の危機管理
天正10(1582)年6月2日の本能寺の変のとき、徳川家康は堺から京都に向かうところだった。織田信長から堺遊覧を勧められ、…
2016年2月8日
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材木専売で土佐を強国にした長宗我部元親の「成長戦略」
戦国武将の危機管理
長宗我部元親の土佐国は山地が多く、米の収穫量は少なかった。百姓たちからの年貢収入を財源とする戦国大名としては危機的状況だっ…
2016年1月25日
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背水の陣を嫌い、城を作り直した家康の臨機応変
戦国武将の危機管理
徳川家康は永禄11(1568)年12月、甲斐の武田信玄と手を結び、間にはさまれた駿河・遠江の戦国大名今川氏真を同時に攻めて…
2016年1月11日
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突然の「隠居宣言」で家臣をまとめた上杉謙信の回り道
戦国武将の危機管理
戦国合戦の勝率第1位といわれ、「軍事のカリスマ」などと評される上杉謙信のことなので、家臣たちは最初からその采配に従っていた…
2015年12月28日
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毛利元就「三本の矢」が退けた秀吉の無理難題
戦国武将の危機管理
毛利元就が臨終のとき、3人の息子、長男隆元、次男元春、三男隆景をよび、1本ずつ矢を与え、「折ってみよ」という。3人は3人と…
2015年12月14日
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「バカ殿」だった武田信玄を救った重臣の忠言
戦国武将の危機管理
武田信玄のことを詳しく記した「甲陽軍鑑」に興味深いエピソードがある。天文8(1539)年というから、信玄19歳のときのこと…
2015年11月30日
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武田氏滅亡後の真田昌幸「変わり身」サバイバル
戦国武将の危機管理
これまで、真田昌幸が、敗走する武田勝頼を上野の岩櫃(いわびつ)城に招こうとしたということが美談として語り伝えられてきたが、…
2015年11月16日
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四面楚歌に陥った信長の「パニック回避術」とは!?
戦国武将の危機管理
よく、「にっちもさっちもいかなくなる」などという。漢字で書くと「二進も三進も」で、「四面楚歌(そか)」もそれに近い。そうし…
2015年11月2日
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名門・北条ブランドで関東に覇を唱えた北条氏綱
戦国武将の危機管理
小田原城を拠点にした戦国大名北条氏は、鎌倉時代の執権北条氏と区別するため、後北条氏と呼ばれている。初代北条早雲にはじまり、…
2015年10月19日
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信長の桶狭間「奇襲」を成功させた情報戦
戦国武将の危機管理
織田信長が今川義元を討った永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いは、よく知られているように、信長の家臣服部小平太が…
2015年10月5日
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関ケ原の敗戦でお家を救った島津義弘「捨て身の行動」
戦国武将の危機管理
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いのとき、薩摩の島津義弘は西軍に属したが、率いていた兵はわずか1500だった。島津氏の所…
2015年9月21日
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秀吉のヘッドハントに苦しめられた家康の対抗策とは
戦国武将の危機管理
徳川家康と羽柴(豊臣)秀吉とは、生涯一度だけ戦っている。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いである。よくいわれるよう…
2015年9月7日
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「中国大返し」で秀吉の窮地を救った策略
戦国武将の危機管理
天正10(1582)年6月2日、本能寺の変が起こったとき、秀吉は備中高松城の清水宗治を攻めている最中だった。備中高松城の水…
2015年8月31日
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「ほめて使う」戦国武将の人心掌握術
戦国武将の危機管理
小和田さんに聞く戦国武将の魅力(6) 小和田哲男・名誉教授は、現代の企業社会でビジネスに携わる人たちに、戦国武将の「人心掌握…
2015年8月26日
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小学生時代の「城歩き」が武将研究の原点だった
戦国武将の危機管理
◇小和田さんに聞く戦国武将の魅力(5) 連載コラム「戦国武将の危機管理」の筆者、小和田哲男・静岡大学名誉教授へのインタビュ…
2015年8月24日
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中途入社組を抜てきした織田信長の「新時代人事」
戦国武将の危機管理
小和田さんに聞く戦国武将の魅力(4) 連載「戦国武将の危機管理」を執筆している小和田哲男・静岡大学名誉教授へのインタビュー。…
2015年8月19日
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ゴマすりばかり周りに置くと城と会社は傾く
戦国武将の危機管理
◇小和田さんに聞く戦国武将の魅力(3) 連載「戦国武将の危機管理」の筆者、小和田哲男・静岡大学名誉教授へのインタビュー3回…
2015年8月17日
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今に通じる武田信玄の「産業振興」、北条早雲の「減税」
戦国武将の危機管理
小和田さんに聞く戦国武将の魅力(2) 連載「戦国武将の危機管理」を執筆している小和田哲男・静岡大名誉教授へのインタビューは、…
2015年8月12日
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明智光秀、石田三成は悪人でも落ちこぼれでもない
戦国武将の危機管理
◇小和田さんに聞く戦国武将の魅力(1) 経済プレミアに連載コラム「戦国武将の危機管理」を執筆している小和田哲男・静岡大学名…
2015年8月10日
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浅井の反旗に「逃げるが勝ち」を演じた織田信長
戦国武将の危機管理
元亀元年(1570年)4月20日、織田信長は大軍を率いて越前の朝倉義景討伐の軍を起こした。信長の上洛命令を無視し続けている…
2015年8月3日
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常に危険な場所に自らをさらした「鬼」佐竹義重
戦国武将の危機管理
常陸の守護大名から戦国大名となったのが佐竹氏であるが、その中興の英主といわれるのが十八代の佐竹義重である。天文16年(15…
2015年7月20日
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武田信玄が父追放クーデターの挙に出たわけ
戦国武将の危機管理
天文10年(1541年)6月14日、甲斐の戦国大名武田信虎が、隣国駿河の今川義元のところに出かけたとき、信虎の息子晴信、す…
2015年7月6日
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伊達政宗 命をかけたパフォーマンス
戦国武将の危機管理
伊達政宗ほど何度も危ない橋を渡った武将はいないのではなかろうか。1度目は、天正18年(1590年)6月の小田原参陣遅参であ…
2015年6月15日
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19歳家康が桶狭間で見せた退却の作法
戦国武将の危機管理
松平元康、すなわちのちの徳川家康は、永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦い当日、尾張の大高城(名古屋市緑区大高町)…
2015年6月1日