社会・カルチャー戦国武将の危機管理

秀吉のヘッドハントに苦しめられた家康の対抗策とは

小和田哲男 / 静岡大学名誉教授

 徳川家康と羽柴(豊臣)秀吉とは、生涯一度だけ戦っている。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いである。よくいわれるように、局地戦では家康が勝ち、秀吉は家康の同盟者織田信雄(のぶかつ)と単独講和を結び、戦う大義名分がなくなった家康も講和に応じている。

 しかし、これはあくまで講和が結ばれただけで、家康が秀吉に臣従したわけではなかった。何とか家康を臣従させたいと考えた秀吉は、家康の重臣石川数正の引き抜きにかかった。石川数正は酒井忠次とともに「両家老」といわれ、三河岡崎城の城主でもあった。

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小和田哲男

小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com