戦国武将の危機管理

関ケ原の敗戦でお家を救った島津義弘「捨て身の行動」

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いのとき、薩摩の島津義弘は西軍に属したが、率いていた兵はわずか1500だった。島津氏の所領は60万石で、石高からすれば1万5000ほどの動員が可能なはずで、事実、慶長の役のときには、義弘は1万2400人を動員していた。

不自然なほど少ない軍勢で関ケ原に陣取った島津軍

 では、関ケ原の戦いのとき、1500人しか率いていなかったのはどうしてなのだろうか。大きな理由は二つあった。一つは、当主義弘と兄義久の豊臣家に対する意識の差である。周知のように、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州攻めのとき、秀吉に抵抗した義久は降伏し、家督を弟義弘に代えられた経緯があり、どちらかといえば豊臣家を恨んでいた。この兄弟確執により、島津氏は西軍に一本化できる状況ではなかったのである。

 そしてもう一つは、関ケ原の戦いの直前、日向庄内の乱とよばれる内乱がおきていたことである。これは、義…

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com