戦国武将の危機管理

武田氏滅亡後の真田昌幸「変わり身」サバイバル

小和田哲男・静岡大学名誉教授
  • 文字
  • 印刷

 これまで、真田昌幸が、敗走する武田勝頼を上野の岩櫃(いわびつ)城に招こうとしたということが美談として語り伝えられてきたが、最近は疑問視されている。武田氏の戦略・戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」と、それを敷衍(ふえん)した形の「加沢記(かざわき)」あたりが出典で、主家に忠実であろうとした昌幸というイメージ作りのため、後世、創作されたエピソードの公算が大である。

 では、実際のところはどうだったのだろうか。勝頼が天目山麓の田野(たの)で自刃した天正10(1582)年3月11日の翌12日付の昌幸宛ての北条氏邦の文書があり、すでに昌幸が武田氏滅亡の前から北条氏に属す動きをしていたことが明らかである。北条氏邦というのは北条氏政の弟で、武蔵鉢形城主であり、上野方面の支配も担当していた。早々に北条方に乗り換えようとしていたことは確実である。

この記事は有料記事です。

残り1171文字(全文1538文字)

小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com