戦国武将の危機管理

毛利元就「三本の矢」が退けた秀吉の無理難題

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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原爆投下により焼失する前の広島城。毛利輝元の築城で、鯉城とも呼ばれた。天守閣は現在、復元されている=1934年6月撮影
原爆投下により焼失する前の広島城。毛利輝元の築城で、鯉城とも呼ばれた。天守閣は現在、復元されている=1934年6月撮影

 毛利元就が臨終のとき、3人の息子、長男隆元、次男元春、三男隆景をよび、1本ずつ矢を与え、「折ってみよ」という。3人は3人とも簡単に折り、次に3本束にして折らせたが容易に折れない。そこで元就は、「1本の矢なら折れるが、3本束になると折れない。兄弟3人、力を合わせるように」と遺言したということが「三矢(さんし)の訓(おしえ)」として広く知られている。

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com