社会・カルチャー青春小説の系譜

あさのあつこ「ランナー」にあふれる若さと疾走感

鶴谷真 / 毎日新聞学芸部記者

 大ベストセラー「バッテリー」で知られるあさのあつこさんが、陸上の長距離走者を主人公に据えた小説が「ランナー」(2007年)だ。「この地方」で屈指の進学校、東部第一高校に通う男子生徒、碧李(あおい)の、1年秋から2年夏にかけての挫折と再起の物語である。

 個人的に、長距離走にはトラウマがある。1987年、中学1年だった私は体育の授業で1500メートルを走った。部活(軟式テニス部)でいつも走らされていたから、わけがないと思っていたのだが、違った。タイムを計測され、順位がつく長距離走は大変な苦痛だったのだ。

 以来、中学や高校の陸上部の長距離選手を畏怖(いふ)するようになった。平素はへらず口ばかりたたくクラスの長距離選手は、ひとたび練習となれば、男女ひとかたまりのグループに溶け込んで土のトラックをタッタッタッと小気味よく踏み、スピードを上げたり下げたりする様は風になったかのようだった。ボールを追ったり、相手を投げ飛ばしたりする競技とはまったく別物で、「信仰」とか「祈り」すら感じる光景だった。

怖さに直面し、立ち止まる碧李

 この小説の重要な舞台はトラックよりも、まず家庭である。

 碧李は1年の秋、陸上部をやめた。妹の杏樹(あんじゅ)に対して、母の千賀子(ちかこ)が暴力を振るうのが原因だ。杏樹は、千賀子の別れた夫の弟の娘で、生まれてすぐに両親が事故で亡くなった。千賀子はそんなつもりはないのに、血のつながらない娘を傷つけるのをやめられない。

 碧李は、妹を守り、母を救おうとしている。残酷な描写はないものの、母娘の葛藤と、その間で無力さをかみしめる碧李の姿には胸が詰まる。長距離走で呼吸が乱れても、走り終えてしばらくすれば治まる。だが、この家族の息苦しさは、もっともっと激しい。

 とはいえ本作の構造はそう単純ではない。碧李の退部の理由である家族の問題は、実はレースで負ける恐怖から逃避するための言い訳だということを、碧李自身が早い段階で自覚するのだ。

 理由も告げずに部を去った碧李に厳しい視線を送りながらも、実は碧李と杏樹を深いところで支えようとする久遠(くどう)というハードル選手が登場する。その久遠が腰痛のために跳べなくなり、「おれは、怖(こ)ええよ」と吐露するあたりから、碧李は己の弱さの本質を知る。

逃げずに“スタート”する勇気

 ここは深い。私も「できない理由」を列挙しがちだ。担当している仕事が多過ぎるから、これ以上は無理。ずっと放置している英語の勉強は仕事が忙しいから無理。家族サービスや親孝行などなど、言い出せば切りがない。だが、ちょっと冷静になれば、できない本当の理由はそうじゃない。負けるのが嫌だから逃げている。スタートしていないだけなのだ。

 本作の魅力的なキャラクターの一人、陸上部マネジャーの前藤杏子(きょうこ)は、とにかく碧李をスタートさせようと背中を押す。曲折の末に部に戻って苦労する碧李を応援する。性格にはキツイ一面もあるのだが、美人である。かといって、碧李と杏子が恋仲になるかといえば、やっぱり本作はそう単純ではない。杏子の思い人は、さて、誰だろうか。

 実際に走る描写はそれほど多くなく、むしろ家庭問題小説と言ってもいい作品なのに、まぎれもない疾走感にあふれている。純粋な心が傷つき、迷って立ち止まり、再びスタートを切ろうとする青春の日常が、疾走そのものだからだろう。

  ◇    ◇

 青春小説は読み手にとっても書き手にとっても思い入れの強い宝物です。毎日新聞学芸部の鶴谷真記者が「青春小説の系譜」をつづります。原則、毎月1回掲載します。

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鶴谷真

鶴谷真

毎日新聞学芸部記者

1974年、神戸市出身。2002年毎日新聞社に入社し、岡山支局、京都支局を経て08年に大阪本社学芸部。13年秋から東京本社学芸部。文学を担当している。

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