戦国武将の危機管理

「大坂城普請5カ条の掟」で工事トラブルを防いだ秀吉

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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大坂城=2007年7月16日、内林克行撮影
大坂城=2007年7月16日、内林克行撮影

 羽柴秀吉は天正11(1583)年4月の賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田信長後継者としての地位を確固たるものとすると、大坂に新しい城を築くことを計画する。実は、信長も石山本願寺のあった大坂の地に注目し、重臣の丹羽長秀と一族部将・織田信澄に預けていたという経緯があったのである。

 前年の清洲会議の結果、摂津は池田恒興に与えられたが、恒興は大坂ではなく、有岡城に入っていた。賤ケ岳の戦いに勝利した秀吉は、信長が注目していた大坂に城を築きたいと考え、恒興を美濃に移し、摂津を自分の領国とした上で大坂城の築城にかかっている。

 このとき、大坂城の普請総奉行を命ぜられたのが黒田官兵衛であった。普請総奉行というだけでなく、縄張も官兵衛が担当したといわれている。

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com