戦国武将の危機管理

迫り来る危機から嗣子・秀忠を守り抜いた徳川家康

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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 徳川家康には11人の男子がいたが、長男信康は天正7(1579)年に自害させられ、次男秀康も豊臣秀吉に人質のような形で養子に出されていたので、手もとで育てたのは三男秀忠だった。いつの時点かはっきりしないものの、秀忠に家督を譲るつもりでいた。

 そして、その思惑通り、慶長10(1605)年、家康は秀忠を二代将軍の座につけているのである。こうした事実から、家督継承がスムーズに行われ、何事もなかったかのような印象を受ける。しかし、実はそれは平たんな道のりではなかった。後継候補秀忠に危機が迫っていたのである。

 現在、史料的にはっきりしている危機は2度あったとみられる。1度目は文禄4(1595)年のいわゆる「関白秀次失脚事件」のときである。この事件は、愛児鶴松を3歳で亡くした秀吉が、「もう子どもはできないだろう」とあきらめ、おいにあたる秀次を養子に迎え、関白まで譲ったところ、拾(秀頼)が生まれ、実子に家督を譲りたくなった秀吉と秀次との間に確執が生じ、秀次が最終的に高野山で切腹させられたものである。

 この事件の直前、家康は京都を離れ、江戸に向かったが、そのとき秀忠付きの大久保忠隣(ただちか)に、「秀吉と秀次が争うことになったら、秀吉側につけ」と言い置いている。案の定、秀次から秀忠に「朝餉(あさげ)参らすべし」と誘いがあった。「これは、秀次が秀忠を人質に取ろうとする策略にちがいない」と判断した忠隣は、その申し出に応ずるふりをして、こっそり、秀忠を聚楽第(じゅらくてい)から逃し、秀吉のもとに送り…

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com