戦国武将の危機管理

信長が「天下の面目」と激賞した明智光秀はトップ家臣

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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 明智光秀といえば、誰もが反射的に本能寺の変を思い浮かべるにちがいない。光秀が本能寺を襲い、信長を殺したことはまちがいないし、主(あるじ)殺し、謀反人のレッテルを貼られていることも確かである。

 しかし、そのことだけが取りあげられるため、光秀の功績には目が向けられていないように思われる。実は光秀は、織田軍団トップの働き頭だったのである。元亀2(1571)年、比叡山焼き討ちのあと、そのふもとに坂本城が築かれるが、光秀はそこの城主となり、それが、信長家臣団の中における「一国一城の主」第1号であった。

 また、天正8(1580)年8月に、怠慢を理由に佐久間信盛・信栄父子が追放されたとき、その折檻(せっかん)状の中で、信盛・信栄父子の怠慢をなじりながら、それと比較対照するように、「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候」と記している。日向守は光秀のことである。

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com