戦国武将の危機管理

「謀反人・光秀の誘いを拒絶」蒲生賢秀が称賛された理由

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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 蒲生(がもう)氏は近江の戦国大名、六角氏累代の重臣だった。賢秀の「賢」は六角義賢(承禎)の一字をもらい受けたものである。

 ところが賢秀は、永禄11(1568)年9月、織田信長が近江に進撃してきたとき、いち早く臣従し、そのとき、鶴千代と名乗っていた子氏郷を人質として出している。信長は氏郷を気に入り、翌年には自分の娘(のちの相応院)と結婚させているのである。

 このあと、賢秀は長光寺城を預けられた柴田勝家に付属させられ、その与力となっている。ところが、勝家が越前に移封されたときにはそこには行かず、そのまま近江にとどまり、勝家の与力ではなくなり、天正4(1576)年に信長が安土城に移ってからは、安土城下に屋敷を与えられ、馬廻衆、すなわち信長の旗本となっていた。

 同10(1582)年6月2日、本能寺の変のときには賢秀は安土城二の丸の番衆をつとめていた。このとき、明智光秀の軍勢が安土城に攻めこんでくると判断した賢秀は、城に残っていた信長の妻子を安全なところに避難させることを考え、金銀財宝をそのままにすることを命じ、城を木村次郎左衛門にまかせ、自ら信長の妻子を連れて居城の日野城へ退いている。財宝に手をつけず、城も焼かなかったことで、このときの賢秀の措置はその…

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com