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「簡単に崩れない」信玄堤の真上に神社が作られたワケ

小和田哲男・静岡大学名誉教授
山梨県竜王町(当時)の信玄堤公園で行われた恒例のお祭り「御幸祭(おみゆきさん)」=2003年4月15日、吉見裕都撮影
山梨県竜王町(当時)の信玄堤公園で行われた恒例のお祭り「御幸祭(おみゆきさん)」=2003年4月15日、吉見裕都撮影

 武田信玄の領国甲斐には笛吹川と釜無川が流れ、それが合流して富士川となるわけであるが、源流から甲府盆地までの距離が短いこともあって、少しまとまった雨が降るとすぐ洪水をひきおこした。

 信玄は、父信虎を駿河に追放し、武田家の家督をついだ直後から堤防工事に着手し、現在、信玄堤の名で知られている。笛吹川の万力堤と近津堤、釜無川の竜王堤などが信玄堤とよばれているが、実際には、信玄が直接手がけたもののほか、いわゆる「信玄流川除法(かわよけほう)」で築かれた堤防も信玄堤とされている。

 その一つ、釜無川の竜王堤が信玄による危機管理としての築堤の様子をうかがうことができるのでくわしくみていきたい。

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静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com