ベイルート市街西端のビーチを望む道で花を売り歩く姉弟。リゾート気分から現実に引き戻された(写真は筆者撮影)
ベイルート市街西端のビーチを望む道で花を売り歩く姉弟。リゾート気分から現実に引き戻された(写真は筆者撮影)

グローバル藻谷浩介の世界「来た・見た・考えた」

ベイルート 美しい街と海の裏にある内戦と難民の傷痕

藻谷浩介 / 地域エコノミスト

レバノン・ベイルート編(2)

 日本語のガイドブックが出ていない数少ない国・レバノン。だが飛行機も飛び、渡航自粛勧告も出ていないということで、腰軽く訪れてみた首都ベイルート。アラビア語とアラビア文字の国にもかかわらず、旧市街の瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいは、北イタリアのようだった。2月末だが燦々(さんさん)と照る地中海の陽光を浴びて、ご機嫌な気分で散策に出かける。

長い歴史が積み重なる街

 ベイルートの旧市街は、地中海に向けて直角に突き出した岬の上に広がっている。北と西が海という地形は、インド洋に突き出したスリランカのコロンボにそっくりだ。

 縁もゆかりもない両市だが、近代以前から海上交易の拠点として栄えたという点は共通している。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの手になる、「紀元前6世紀に当地を船出したフェニキア人の船が、喜望峰を回ってアラビアにたどり着いた」という記録から想像を膨らませれば、両方の港を見た古代の船乗りも、あるいは存在したかもしれない。

ベイルート・アメリカン大学のキャンパス前で。キリスト教徒の女子学生は普通に髪を見せている
ベイルート・アメリカン大学のキャンパス前で。キリスト教徒の女子学生は普通に髪を見せている

 町の東には標高2500メートルを超えるレバノン山脈が延び、地中海からの西風がぶつかって上昇気流となることから、一定の降水がある。2月末の今日は、上から4分の1ほどが雪に覆われていた。国名の元となったフェニキア語の「レバン」は「白い」という意味だという。確かに乾燥した地中海沿岸で、この景観は古代から人の注意を引くものだっただろう。当市からその山並みを越えて反対側に下りていくと、80キロも行かない先から乾燥したシリアになる。

 当地の先住民だったフェニキア人が、航海の民として記録に登場するのは紀元前15世紀。北隣のアナトリア半島(現トルコ)にヒッタイト帝国が勃興したのと同時期である。降水の恵みを受けて育つレバノン杉(国旗にもデザインされている)を、ヒッタイト人が実用化した鉄器で伐採・製材できるようになったことが、背景にあっただろう。

パリ通りの広い歩道で散歩やジョギングをする市民。服装は宗派によってさまざま
パリ通りの広い歩道で散歩やジョギングをする市民。服装は宗派によってさまざま

 当国の南隣でユダヤ人の王国が栄えたのはその500年後、キリストの降誕は1500年後、ムハンマドにアッラーの啓示が降りたのは2100年後だ。だがそのイスラム教創始すらも、日本の飛鳥時代に該当する大昔の出来事である。兵庫県と大阪府ほどの面積に兵庫県ほどの人口が住むこの小国には、その長い時間を通じて、ミルフィーユのように多様性が折り重なった。

レバノン山脈の雪を眺めながら海辺を歩く

 山の上には今でもわずかに残されたレバノン杉の森があり、世界遺産になっているという。しかし人間の生態に主要な関心のある筆者は、この人口200万人ほどの都会を歩けるだけ歩くことに、本日の精力を傾けることとした。

彼女たちのようなカラフルな服装のムスリムの女性はドバイなどでも多く見かける(パリ通りで)
彼女たちのようなカラフルな服装のムスリムの女性はドバイなどでも多く見かける(パリ通りで)

 ひとまずは北面の海岸に向けて、坂道を下りる。途中にはベイルート・アメリカン大学のキャンパスがあった。日本で明治維新が起きたころに、米国から来たプロテスタント宣教師が開いたものだが、今は宗教色のない総合大学だ。ちなみに米国政府は現在、自国民にレバノンへの渡航自粛を勧告しているという。こんなに平和な様子なのだが。

 海岸まで出ると、海沿いのパリ通りの広い歩道で、ジョギングや散歩を楽しむ市民の姿があった。水はもともと青く澄んでいたものが、都市排水でやや汚れ始めているという印象だが、それでも十分に泳げそうだ。筆者もここから西回りに、海沿いを歩いていくことにする。キリスト教徒とムスリム諸派の混住地だけに、女性の服装を見ていると、西欧と同じ露出度の人から、頭にカラフルな布を巻いた人、黒ずくめの人まで、実にさまざまだ。

道ばたでオレンジジュースやスナック菓子を売るスタンド。スナック菓子は輸入品ではなく当国製
道ばたでオレンジジュースやスナック菓子を売るスタンド。スナック菓子は輸入品ではなく当国製

 町の北西の角には由緒ありげな灯台があり、そこから先、南に向かう海岸は低い崖となっていた。「鳩の岩」と呼ばれる奇岩に面して、オーシャンビューのレストランやカフェが崖上に集まり、リゾートマンションも続々建設されている。

 一角に真新しいスターバックスがあったので、一息入れつつスマホでWi-Fiに接続し、現在位置などを確認した。筆者の加入するプランでは、欧・米・アジアの多くの国においてデータ通信を1日最大980円の定額料金で使えるのだが、この国はサービス対象外地域だ。Wi-Fiがないところでうっかりネット接続などすると、高額を請求されかねない。

市街西の崖の上から見る「鳩の岩」。週末にはテラスレストランが多数出る
市街西の崖の上から見る「鳩の岩」。週末にはテラスレストランが多数出る

国内居住者の3分の1が難民

 スタバを出て、美しいビーチを遠望しながら坂を南に下っていく。すっかりリゾート気分になったが、バラの花束を抱えた子ども2人と抜きつ抜かされつつするうちに、彼らが貧しい物売りの姉弟であることに気付いた。商売に身が入らないようで、2人とも海の方ばかり見ている。もしかして当国内のキャンプに50万人が居住するというパレスチナ難民だろうか。あるいは100万人を超えているといわれる新参のシリア難民か。

 命からがら逃げてくるシリア難民を、国境で追い返すようなことは、レバノンはしていない。だが難民は、寒冷な高地の劣悪な住居に留め置かれ、就労も許されないままだ。人道面から批判されているところだが、平地にも天然資源にも乏しいレバノンにしてみれば、国内居住者の3人に1人が難民という今の状態は耐え難い。国民も難民もアラビア語話者だが、難民のほとんどはムスリムなので、居住権を与えれば国内の危うい宗教バランスも崩れる。

新しいビルが続々建設されているが、その中に撮影禁止のものがあったりする
新しいビルが続々建設されているが、その中に撮影禁止のものがあったりする

 1975年からの内戦も、ヨルダンから追い払われたPLO(パレスチナ解放機構)を受け入れたことで、国内での宗教対立が深刻化し、そこにイスラエルとシリアが介入して泥沼化したものだった。その後PLO本部はパレスチナに去ったが、当初10万人だったパレスチナ難民は、子孫を含め5倍に膨れ上がった。打倒イスラエルを掲げるシーア派組織ヒズボラ(神の党)が置き土産のように勢力を強めつつあり、新たな介入の危険性も高まっている。

警官に止められ「銀行は撮影禁止」

 ビーチ北端で海と別れ、ドゴール将軍通りを東の方向に向かう。古い建物の写真を撮ったら、道の向かいの詰め所にいた警官に「来い」と呼ばれた。該当データを消去したら許されたが、撮影禁止の理由はわからなかった。

「それのどこが進化?」。サルから進化した人間が自爆ベルトをつけ銃を持って歩くようになるという壁画
「それのどこが進化?」。サルから進化した人間が自爆ベルトをつけ銃を持って歩くようになるという壁画

 今度はバーダン通りを北東に、都心方向に歩く。銀行本社の近代的なビルが並んでいたので撮影したら、またまた警官に呼び止められて写真の消去を求められた。「民間銀行の建物なのになぜ」と聞いたら、「民間だけれども、銀行の建物は撮影禁止だ」とのこと。「他の国では聞いたことがない厳しさだね」と感想を述べたら、相手は哀愁のこもった目でまじまじと筆者を見つめ、「確かに他の国にはないルールだろう。だけど考えてもみてくれ。この国はとんでもない苦難を経験してきたんだ。これからも何があるかわからない。そういう事情を理解して、ルールは守ってほしい」と、しみじみ語るのだった。先ほどの警官もこの警官も、威圧的ではなくむしろ親切そうだが、態度は真剣だ。

 地中海沿いのご機嫌なリゾート都市、という気分に染まり過ぎていたことを反省し、気を引き締めて探索を続ける。(次回「「レバノン」歴史の重みの中に生きる人々のストレス」)

    ◇    ◇

 この連載は、余計な予習は無用、ぶっつけ本番の「世界のまちかど見聞記」である。「世界中の国に行きたい」という子供時代の夢を捨てきれない中年男が、可能な限り多くの世界の街にほんの短時間でも降り立ってひたすら歩く。世界の片隅に身を置いてこそ見える現実をリポートする。

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藻谷浩介

藻谷浩介

地域エコノミスト

1964年山口県生まれ。平成大合併前の約3200市町村のすべて、海外95カ国を私費で訪問し、地域特性を多面的に把握する。2000年ごろから地域振興や人口問題に関して精力的に研究、執筆、講演を行う。著書に「デフレの正体」「里山資本主義」ほか多数。国内の鉄道(鉄軌道)全線を完乗した鉄道マニアでもある。

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