戦国武将の危機管理

越後長岡城に見る「築城の常識と常識外」

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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 慶長3(1598)年、越後春日山城主だった上杉景勝が会津若松城に移っていった。蒲生氏郷が亡くなったあと、豊臣秀吉が、徳川家康と伊達政宗の押さえとして白羽の矢をたてたのが景勝だったからである。

 代わりに春日山城には堀秀政の子秀治が入り、秀治は領内の主要支城に自分の一族部将を入れた。このとき、蔵王堂城(新潟県長岡市)に入ったのが秀治の弟親良で、そのあと、秀治の子鶴千代が入り、鶴千代が早世したあと、鶴千代の後見役だった一族の堀直寄(なおより)が入っている。

 蔵王堂城は、その名前からもうかがえるように、蔵王権現がまつられていた場所で、すでに室町時代から、越…

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com