
上杉謙信の死後、御館(おたて)の乱とよばれる家督争いに勝利して家督をついだ上杉景勝は、武田勝頼と結んでいたため、天正10(1582)年の段階で危機的状況にあった。
武田家を滅亡に追いこんだあと、織田信長が柴田勝家に命じて上杉領に攻めこませたのである。そして、勝家の軍勢が景勝の最前線の城となっていた越中の魚津城(富山県魚津市)を攻めているとき、本能寺の変がおこり、景勝は命拾いをしている。
このあと、羽柴秀吉の有名な「中国大返し」があり、山崎の戦いで明智光秀を破り、秀吉が柴田勝家より優位に立つことになるが、勝家が出遅れたのは、上杉景勝の動きがあったからである。というのは、勝家が魚津城を落とした直後、景勝が信長の横死を知り、魚津城奪還の動きをみせたため、勝家がすぐに兵を引くことができなくなったからである。
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小和田哲男
静岡大学名誉教授
戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com