
慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの論功行賞で、東軍・徳川家康方についた山内一豊は、それまでの遠江掛川城主5万9000石から一躍土佐20万2600石へ加増されることになった。
一豊にしてみれば、実に喜ばしい加増栄転ということになるが、表向きはともかく、実際は喜んでばかりいられなかったことも事実である。というのは、土佐はそれまで長宗我部盛親の領国で、盛親が西軍・石田三成方についたため、改易処分にあっていたからである。
盛親は関ケ原合戦の当日、南宮山の東麓に布陣していて、実際の戦いには加わってはいなかった。そのため、盛親は井伊直政を介して徳川家康に謝罪すれば本領安堵(あんど)されるのではないかとの期待も持っていたのである。ところが改易を申しつけられてしまった。
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小和田哲男
静岡大学名誉教授
戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com