戦国武将の危機管理

関ケ原で西軍だった武将の“涙ぐましい”生き残り策

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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 慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの前哨戦となったのが、同年7月19日からはじまった伏見城の攻防戦だった。8月1日に伏見城は落城するが、その攻防戦で一番槍(やり)の功名をあげたのは、九州の大名鍋島勝茂の家臣成富十右衛門であった。鍋島勝茂は、はじめ西軍だったのである。

 ちなみに、勝茂は関ケ原の戦い後、肥前佐賀で5万石を加増され、36万石で近世大名として存続することになるが、西軍だった勝茂の巧みな危機管理が家の存続につながったことになる。その生き残り策を具体的に追ってみたい。

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com