戦国武将の危機管理

敵に“度量”ある明智光秀と“皆殺し”信長の「違い」

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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JR岐阜駅前の織田信長像=2012年3月15日、兵藤公治撮影
JR岐阜駅前の織田信長像=2012年3月15日、兵藤公治撮影

 天正10(1582)年6月2日の本能寺の変のとき、明智光秀の軍勢は1万3000といわれている。居城だった丹波亀山城を出陣したときの軍勢が、そのまま落伍(らくご)者を出さずに本能寺に向かったということで、その家臣団の結束の固さが注目されている。

 その前年、織田家中では珍しい「家中軍法」が定められているのが理由の一つとしてあげられているが、もう一つ、光秀の家臣に対するいたわりの気持ちが家中統制に反映していたのではないかと思われる。家臣に対するいたわりが危機管理につながっていったのではなかろうか。

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com