戦国武将の危機管理

信長に「面目ほどこし候」と絶賛された光秀の丹波攻め

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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「亀岡光秀まつり」の武者行列=京都府亀岡市で2012年5月3日、村田拓也撮影
「亀岡光秀まつり」の武者行列=京都府亀岡市で2012年5月3日、村田拓也撮影

 織田信長は、天正3(1575)年5月21日の三河長篠・設楽原の戦いで武田勝頼軍を破ったことで、ようやく、東の脅威が取り除かれることになり、本格的な丹波経略に動き出した。丹波攻めの大将に任命されたのが明智光秀である。

 丹波国は現在の京都府中央部と兵庫県東部にあたる。京都周辺がすでに織田領国に組み込まれているのに、丹波が手つかずだったことに意外という印象があるかもしれない。実は、天正元(1573)年に足利義昭が信長に追放される以前の「義昭・信長二重政権」のときは、丹波の武将たちのほとんどが幕府に従っている形だった。ところが、義昭が追放され、幕府が瓦解(がかい)したことで、反信長の姿勢を明確にしはじめた。

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com