戦国武将の危機管理

明智光秀軍1万3000人「信長討伐」で見せた“神わざ”

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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本能寺。1582年の本能寺の変で焼失し、その後、現在地に移された=京都市中京区で2019年7月16日、銅崎順子撮影
本能寺。1582年の本能寺の変で焼失し、その後、現在地に移された=京都市中京区で2019年7月16日、銅崎順子撮影

 明智光秀が本能寺にいる織田信長の襲撃を決意したのがいつなのかは正確にはわかっていない。光秀は、備中高松城の水攻めを続けている羽柴秀吉の援軍として出陣するよう信長から命ぜられた。そして、1万3000の大軍を率いて居城の一つだった亀山城を出陣したのは、天正10(1582)年6月1日の午後8時から9時ごろにかけてであった。

 一般的には、出陣の直前、光秀が家老クラスの5人、すなわち、斎藤利三・明智秀満・明智光忠・溝尾庄兵衛…

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com