戦国武将の危機管理

「麒麟がくる」時代考証の小和田氏が探る本能寺の真相

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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 天正10(1582)年6月2日未明、明智光秀が1万3000の兵を率いて京都本能寺を襲撃し、信長とその長男信忠を殺害した。世にいう本能寺の変である。信長の家臣として、信長からの信頼も厚かった光秀が、なぜ信長に叛旗(はんき)を翻したのか、つまり、光秀謀反の真相は何だったのかは、以前から「日本史最大のミステリーの一つ」などといわれ、さまざまな説が提起されている。

 古くは怨恨(えんこん)説が主流だったように思われる。光秀が信長から今でいう「いじめ」あるいは「パワハラ」を受け、その積もり積もった鬱憤を爆発させたのが本能寺の変だったとする。ただ、「いじめ」に該当することがらの多くは、江戸時代に書かれたものが出典となっていて、近年は疑問符が付けられている。

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com