戦国武将の危機管理

「信長拝受の宝」を敵将に託した光秀娘婿の“死に際”

小和田哲男・静岡大学名誉教授
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 「明智秀満って誰?」といわれそうである。明智光秀の重臣であり、光秀の娘と結婚していたので、娘婿にあたる。系図によっては光秀のいとことされているが、秀満の父が三宅出雲守とする史料もあり、実際にどうだったのかはわからない。左馬助光春の名で知られているが、正しくは弥平次秀満といった。

 秀満は「左馬助の湖水渡り」という故事で名が知られている。天正10(1582)年6月2日の「本能寺の変」の後、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、命を落とした。明智軍の別働隊として動いていた秀満は、琵琶湖のほとりで敗色濃厚となった。このとき、騎乗のまま湖に乗り入れ、命がけで湖を渡り、窮地を脱したというものだ。

 秀満はたどりついた坂本城で悲劇的な最期を遂げる。だが、湖を渡った大胆な決断はいまも語り継がれている。この「湖水渡り」を詳しくみてみたい。

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小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com